去来抄

末成俳句

「去来抄」は、松尾芭蕉の高弟であった向井去来によって書かれた、芭蕉研究に欠かせない書物である。その内容は、上中下の三部構成となっており、それぞれ「先師評」「同門評」「修行教」とタイトルがつけられている。その一番初めの「先師評」は、45項に分かれ、それぞれの項目で取り上げられた句に対する、芭蕉の論評を中心に構成されている。

去来抄 上 先師評

 外人の評有りといへども、先師の一言まじるものは此部に記也

蓬莱にきかばや伊勢のはつ便り 芭蕉

深川よりの文に、此句さまざまの評あり、汝いかが聞侍るやとなり。去来曰、都又は故郷の便ともあらず、伊勢と侍るは元日の式の今やうならぬに神代をおもひいでて、たより聞ばやと、道祖神のはや胸中をさはがし給ふとこそ承り侍れと申す。先師返事に、汝が聞く処にたがはず、今日神のかうがうしきあたりをおもひ出で、慈鎮和尚の詞にたより、初の一字を吟じ、清浄のうるはしきを蓬莱に対して結びたる也と。

先師 ⇒ 松尾芭蕉
慈鎮和尚の詞 ⇒ 「此たびは伊勢の知る人音づれて 便りうれしき花柑子かな」拾玉和歌集

伊勢という響きに神代の神々しさを思い、慈鎮和尚の和歌に「初」の文字をアレンジした。清浄さ、神々しさを正月の蓬莱飾りに集約したものである。


からさきの松は花より朧にて 芭蕉

或人にて留りの難あらんやと云。其角答曰。にては哉にかよふゆゑ、かな留の発句ににて留の第三を嫌ふ。哉といへば句切迫れば、にてとは侍るとなり。呂丸曰。にて留の事は其角が解あり、又是は第三の句也、いかに発句とはなしたまふや。去来曰。是は即興感偶にて発句なる事疑ひなし、第三は句案に渡る、もし句案にわたらば、第三等にくだらん。先師重て曰。其角去来が弁皆理屈なり。我はただ花より松の朧にて面白かりしのみなりと。

其角 ⇒ 宝井其角
第三 ⇒ 連句の第三句
呂丸 ⇒ 図司呂丸

「にて」留めに関して、俳諧の決まりごとを絡めて議論しているが、芭蕉はそれらを理屈だと諫め、花よりも松が朧に見えた感動を表現しただけだと言う。「かな」留めにせず「にて」としたのも、朧に通じるやわらかさを得るためである。

行く春をあふみの人とをしみける 芭蕉

先師曰。尚白が難に、近江は丹波にも、行春は行年にもなるべしといへり、汝いかが聞侍るや。去来曰、尚白が難あたらず、湖水朦朧として春ををしむに便有るべし、殊に今日のうへに侍ると申しき。先師曰、しかり、古人も此国に春を愛すること、をさをさ都におとらず。去来此一言こころに徹す。行年近江に居たまはば、いかでかこの感のましまさん、行く春丹波にゐまさばもとより此情うかぶまじ、風光の人を感動せしむる事真なるかなと申。先師曰。汝や去来、ともに風雅をかたるべきものなりとよろこび給へりしか。

尚白 ⇒ 近江蕉門の江左尚白

近江は丹波に、行春は行歳に入れ替えることのできる動く句だという指摘に、この湖水朦朧とした景色の中に春を惜しむことは、古から受け継がれているものだと反論。それを共有するところに、風雅を語る喜びが生まれるという。

此木戸や錠のさされて冬の月 其角

猿蓑撰にの時に此句書おくり、冬の月霜の月置きわづらひ侍るよし聞ゆ。衆議冬の月による。先師曰、其角が冬、霜に煩ふべき句にもあらずとて、冬の月に定め、入集せられける。はじめは文字つまりて、柴戸とよめたり。然るに出板の後、木津より先師の文に、柴の戸にあらず、此木戸なり、かかる秀逸は一句も大切なり、たとへ出板におよぶとも、いそぎ改むべしとなり。凡兆曰、柴の戸、此木戸させる勝劣なし。去来曰。此月を柴の戸に寄て見れば尋常の気色なり、是を城門にうつして見れば、其風情あはれに物凄き事はかりなし。実も其角が冬、霜にわづらへるもことはりなり。

凡兆 ⇒ 野沢凡兆

其角のこの句の「此」と「木」が詰まっていたため、「柴戸」として出版しようとしたが、芭蕉が改めさせた。「柴の戸」では何ともない景色となるが、此木戸を「城門」とみれば話は異なる。その荘厳さに、「冬の月」にしようか「霜の月」にしようかと思い煩うこともない。

うらやましおもひきる時猫の恋 越人

先師、伊賀より此句を書贈て曰、心に俗情あるもの、一たび口に不出といふ事なし、かれが風雅是に至りて本情をあらはせりとなり。是より先に越人名四方に高く、人のもてはやす発句多し、しかれども爰に至りてはじめて本性を顕すとなり。

越人 ⇒ 越智越人

詩情を抱けば、言葉にあらわれるものである。越人に秀句は多く、ひとに褒められることも多かったが、この句でその素晴らしさが明らかになったのである。

こがらしに二日の月の吹きちるか 荷兮

凩の地にも落さぬしぐれ哉 芭蕉は、

去来曰、二日の月といひ、吹ちると働きたるあたり、予が句にはるか勝れたりと覚ゆ。先師曰。荷兮が句は二日の月といふものにて作せり、其名目を除けばさせることなし、汝が句は何をもて作したりとも見えず、全体の好句なり、ただ地までとかぎりたる迄の字いやしとて直し給ひぬ。

荷兮 ⇒ 山本荷兮

去来は荷兮の句に及ばないと考えていた。荷兮の句は、二日の月を取り上げたこと以外大したことはないと芭蕉は指摘し、もとは「凩の地まで落さぬしぐれ哉」だった去来の句を、「迄」が卑しいと修正して、全体的にいい句だと言った。

春風にこかすな雛の駕籠の衆 荻子

先師此句を評して曰、伊賀の作者あたなる處を作して尤なつかしとなり。丈草曰、伊賀のあたなるを先師はしらず顔なれど、そのあたなるは先師のあたならずや。

丈草 ⇒ 内藤丈草
荻子 ⇒ 辻荻子。芭蕉と同じ伊賀の人。

質素な雛飾りを詠んだ句に、芭蕉は懐かしさを感じると言った。丈草は、伊賀の美点に関して芭蕉は知らん顔しているが、その美点こそが芭蕉の美点だと言っている。

清瀧や波に塵なき夏の月 芭蕉

先師、難波の病床に予をめして曰。此頃、薗女が方にて「白菊の目に立てて見る塵もなし」と作す句に似たれば、清瀧の句を案じかへたり。はじめの草稿野明が方に有べし、取て破るべしとなり。然れども、はや集にもれ出侍れば捨つるに及ばず、名人の句に心を用ゐたまふ事しらるべし。

難波の病床 ⇒ 元禄7年(1694年)冬。
薗女 ⇒ 斯波園女

芭蕉が死の3日前、この句は「白菊の目に立てて見る塵もなし」に似ているので、「清滝や波に散り込む青松葉」に変えた。故にはじめの草稿は破り捨ててくれと。けれども、既に流布してしまっていた。名人とは、このように細部にまで気をつかうものである。

涼しさの野山にみつる念佛哉 去来

是は善光寺如来の洛陽真如堂に遷座在し時の吟也。はじめの冠は、ひいやりとと置きたり。先師曰、かかる句は全体おとなしく仕立るものなり、五文字しかへてよしとて、風薫ると改め給ふ。後猿蓑の撰場には、再び改て、今の冠にぞせさせける。

冠 ⇒ 上五
後猿蓑 ⇒ 続猿蓑(沾圃編1698年)

善光寺如来が洛陽眞如堂に遷座した時に詠まれた句で、はじめは上五を「ひいやりと」とした。芭蕉は、このような句はおとなしく仕立てるものだとし、「風薫る」とした。後猿蓑の時に「涼しさの」にした。

面楫やあかしのとまり郭公 荷兮

猿蓑撰の時去来曰く、此句は先師の野を横に馬牽きむけよと同前なり、入集すべからず。先師曰、明石の時鳥といへるもよし。去来曰、明石のほととぎすはしらず、一句ただ馬と舟とかへ侍るのみ、句主の手柄なし。先師曰、句の働きにおいては一歩も動かず、明石をとりえにいれば入なんとなり。終にいらず。

猿蓑 ⇒ 向井去来・野沢凡兆編1691年
「野を横に馬牽むけよほとゝぎす」芭蕉(おくのほそ道)

面楫(おもかじ)は面舵(船首を右に切る事)で、芭蕉の「野を横に馬牽むけよほとゝぎす」と同じであると、去来が指摘。芭蕉は「明石の時鳥」もいいと言ったが、結局猿蓑には入れなかった。

君が春蚊帳は萠黄に極りぬ 越人

先師曰、発句は落着かざれば真の発句にあらず、越人が発句既落着たりと見ゆれば、又おもみ出来れり。此句蚊帳は萠黄に極たるにてたれり。月影、朝朗など置きて蚊帳の発句となすべし、其上かはらぬ色を君が代にかけて歳旦となし侍る故、心重く句綺麗ならず。

発句は落ち着いたものでなければならないと芭蕉は言うが、この句は落ち着いているとは言っても、重たい。恋の句を新春の目出度さに掛けてしまっては、心苦しい。芭蕉の説く「軽み」からは、かけ離れてしまっている。

振舞や下座に直る去年の雛 去来

此句は予思ふ処ありて作す。五文字古烏帽子紙衣等はいひ過たり、景物は下心徹せず、あさましや、口をしやの類ひははかなしと、今の冠を置て窺ひければ、先師曰、五文字に心をこめておかば、信徳が人の世やなるべし、十分ならずとも振舞にて堪忍有るべしと也。

信徳が人の世 ⇒ 伊藤信徳の「人の代や懐にある若恵比須」

思うところがあって詠んだ句であるが、上五に思い悩んでいた。「振舞や」を思いついて芭蕉に聞くと、そこに集中すると、信徳の「人の代や」のようになる。十分ではなくても、「振舞や」で良いだろうとのこと。

田のへりの豆つたひ行く蛍かな 萬乎

もとは先師の斧正ありし凡兆が句なり。猿蓑撰の時、凡兆曰、此句見る処なし、除べし。去来曰、へり豆をつたひ行く蛍の光、闇夜の景色風姿ありといふ。凡兆ゆるさず。先師曰、兆もし捨ば我拾はむ、幸伊賀の連中の句に是に似たるあり、夫を直し此句となさんとて、終に萬乎が句と成けり。

萬乎 ⇒ 伊賀上野の豪商で芭蕉の門人。

もとは、芭蕉が添削した凡兆の句。猿蓑を編集する時、凡兆がこの句に見るところはないと言ったので、似た句をつくっていた伊賀の萬乎の句とした。

大としをおもへば年の敵かな 凡兆

もとの五文字、恋すてふと置て予が句也。信徳曰、恋さくらと置くべし、花は騒人の思ふ事切なり。去来曰、物には相応あり、古人花を愛して、明くるを待、くるるををしみ、人を恨み山野に行迷へども、いまだ身命のさたにおよばず。桜と置かば却て年のかたき哉といへる処あさまになりなむ。信徳なほこころえず。重て先師に語る。先師曰、そこらは信徳が知るところにあらずとなり。其後凡兆大年をと冠す。先師曰、誠に此一日千年のかたきなり、いしくも置たるもの哉と大笑し給けり。

はじめは、「恋は千年の敵」ということで上五に「恋すてふ」と置いた。信徳は「恋桜」と置けと言ったが、これではかえっておかしい。その後、凡兆が「大としを」にして落ち着いた。「まことに大晦日は千年の敵だ」と、芭蕉は納得した。

賽銭も用意顔なり花の森 去来

先師曰、花の森とは聞きなれず、名処なるにや、古人も森の花とこそ申し侍れ、詞を細工してかかる拙き事云ふべからずと也。

古人は「森の花」という言葉を使うことはあっても、「花の森」などとは言わない。言葉に細工をしてはならない。

月雪や鉢たたき名は甚之丞 越人

去来曰、此頃伊丹の句に、「彌兵衛とはしれど憐や鉢たたき」と云ふあり。越人が句、入集いかが侍らむ。先師曰、月雪といへるあたり一句働見えて、しかも風姿あり、ただ、しれど憐れやといひくだせるとは各別也、されども鉢敲の俗体をもて趣向を立、俗名をかざり侍れば尤も遠慮有べし。又重ねて折もあらむとなり。

空也忌から大晦日まで、瓢を叩きながら念仏唱えて洛中を廻る鉢たたき。萌黄に鷹の羽紋の着衣がゆえに、越人は「甚之丞」と見た。伊丹の句に同じようなのがあり、芭蕉に入集を問うと、「月雪」に情があり、「憐れや」と言い下したものとはモノが違うと。けれども、俗体・俗名を用いた句は、今回は選ばずにおこうと。

きられたる夢はまことか蚤の跡 其角

去来曰、其角は実に作者にて侍る、はづかに蚤のくひつきたる事誰かかくはいひ尽さん。先師曰、しかり、かれは定家の卿なり。さしてもなき事をことごとしくいひつらね侍るときこえし。評詳なるににたり。

蚤に食われた痕を見て、太刀で切られた夢の事をいう其角は、藤原定家のように、大したこともないことを仰々しく言う作者である。

をとと日はあの山越えつ花ざかり 去来

是は猿蓑ニ三年前の吟なり。先師曰、此句いま聞く人あるまじ、一両年を待つべしとなり。其後杜国が徒と、よし野行脚し給ひける道よりの文に、或はよし野を花の山といひ、或はこれはこれはとばかりと聞えしに魂を奪はれ、又は其角が桜さだめぬといひしに気色をとられて、よし野に発句もなかりき。ただをととひはあの山越えつと日日吟じ行侍るとなり。其後此句を語り、人もうけとりけり、今一両年早かるべしとはいかでか知り給ひけん。予は却て夢にもしらざる事どもなり。

杜国 ⇒ 芭蕉門人の坪井杜国。

猿蓑が成るニ三年前、芭蕉は、この句を今聞く人はいないが、ニ三年待てと言った。芭蕉が杜国との「笈の小文」の旅で吉野に入った時、藤原良経「昔たれかかる桜の種うえて吉野を花の山となしけむ」や、安原貞室の「これはこれはとばかり花の吉野山」、其角の「明星や桜定めぬ山かづら」などに気をとられて句が浮かばなかった。ただ、「をととひはあの山越えつ」とばかり諳んじていたらしい。その後この句を語り、有名になっていった。

病雁の夜寒に落て旅寝かな

海士の家は小海老にまじるいとど哉

猿蓑撰の時、此うち一句入集すべしとなり。凡兆曰、病雁はさることなれど、小海老にまじるいとどは句のかけりことあたらしく、誠に秀逸なりといふ。去来曰、小海老の句はめづらしといへど、其物を案じる時は予が口にもいでん、病雁は格高く趣かすかにして、いかでか爰を案じつけんと論じ、終に両句ともに乞うて入集す。其後先師曰、病雁を小海老などと同じ如くに論じけるやと笑ひ給ひけり。

猿蓑撰の時、二句のうちどちらかを入集させよと芭蕉が言った。凡兆は小海老の句、去来は病雁の句を推したが、最後には両句とも入集した。後に芭蕉は、病雁を小海老と同じテーブルで論じたことを笑った。

岩鼻やここにもひとり月の客 去来

去来曰、洒堂は此句を月の猿とすべしと申し侍れど、予は客の字勝りなんと申。先師曰、猿とは何事ぞ、汝此句をいかに思ひて作せるや。去来曰、明月の山野を吟歩し侍るに、岩頭亦一人の騒客を見付たると申。先師曰、ここにもひとり月の客と、己と名乗出らんこそいくばくの風流ならめ、ただ自稱の句となすべし、此句は我も珍重して笈の小文に書入けるとなん。予が趣向は一等くだり侍りけり、先師の意をもて見れば少し狂者の感も有にや、笈の小文集は先師自選の集なり。名を聞いていまだ書を見ず、草稿半ばにて遷化ましましける。昔時申しけるは、予が発句幾句か入集なし給へるやと窺ふ。先師曰、我門人笈の小文に入句、三句持ちたるもの稀ならん。汝過分のことをいへりと也。

洒堂 ⇒ 芭蕉門人の濱田洒堂。

洒堂は「月の客」を「月の猿」にすべきと言った。去来は、岩頭に見た詩人のことを詠んだのであるが、芭蕉は、「己自身」のことを言い表していると見て、この素晴らしい句を芭蕉自選の句集に入れると言った。その句集は現代まで世に出ていないが、門人であっても、3句入集するのは稀。

うづくまる薬の下のさむさ哉 丈草

先師難波の病床に、人々に夜伽の句をすすめて曰、今日より我が死後の句なり、一字の相談を加ふべからずと也。さまざまの吟ども多く侍りけれど、ただ此句のみ、丈草出来たりとのたまふ。かかる時はかかる情こそ動侍らめ、興を発し景をさぐるに、豈にいとまあらんやと、此時にて思知侍る。

洒堂 ⇒ 芭蕉門人の濱田洒堂。
夜伽の句 ⇒ 病中のあまりすするや冬ごもり(去来) 引張てふとんぞ寒き笑ひ聲(惟然) しかられて次の間へ出る寒さかな(支考) おもひ寄夜伽もしたし冬ごもり(正秀) くじとりて菜飯たかする夜伽かな(木節) 皆子なりみのむし寒く鳴つくす(乙州)

芭蕉は死際の病床で、夜伽の句を勧め、数ある句の中で丈草のこの句のみ「よく出来た」と褒めた。このような時は、このような情が働くものなのだろう。思いが景色を探り求める時間などないのだと、思い知った。

下京や雪つむうへの夜の雨 凡兆

此句初に冠なく、先師をはじめいろいろと置き侍りて、此冠に極め給ふ。凡兆、あと答て未だ落着ず。先師曰、兆汝手がらに此冠を置くべし、若まさるものあらば我れ二たび俳諧をいふべからずとなり。去来曰、此五字のよきことは誰々もしり侍れど、是外にあるまじとはいかで知侍らん、此事他門の人聞き侍らば、腹いたくいくつも冠置くべし、其よしとおかるる物は、又こなたにはをかしかりなんとおもひ侍る也。

この句には、はじめ上五がなかったが、芭蕉が「下京や」に定めた。もし、他に良いものがあれば、俳諧をやめると言って。他門のものであれば、いくつも上五を挙げるだろうが。

猪の寝に行くかたや明の月 去来

此句を窺ふ時、先師しばらく吟じて兎角をのたまはず、予が思ひ誤は、先師といへども帰り待つ夜興引の意を知り給はずやと、しかじかのよしを申し侍れば、先師曰、其のおもしろき所は古人もよく知ればこそ「明けぬとて野辺より山に入る鹿のあと吹送る萩の上風」とはよめりける、和歌優美のうへにさへ斯くまでかけり作したるを、俳諧自由のうへにただ尋常の気色を作せんは更に手柄なかるべし、一句おもしろげなれば暫案じぬれど、兎角に詮なかるべしとなり。其後おもふに、此句は郭公なきつるかたといへる後徳大寺の歌の同案にて、いよいよ手柄なきことを知れり。

「明けぬとて野辺より山に入る鹿のあと吹送る萩の上風」新古今和歌集 源通光
後徳大寺の歌 ⇒ 郭公鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞのこれる

芭蕉にこの句の評価を求めたが、何も言わないので、猟師の獲物を待ちわびる気持ちが分からない人だと、厭味を言ってしまった。すると、新古今和歌集にある源通光の和歌を対極に挙げて、俳諧に自由さが許されているにも関わらず平凡なものであると言われてしまった。後で考えると、後徳大寺の歌と同案であった。

蘿の葉の―――何々とやらん、跡は忘れたり。尾張の人の句なり。

此句は蘿の葉の谷風に一すぢ峯まで裏吹かへさるると云句なるよし。予先師に此句を語に、先師曰、発句は斯くのごとくくまぐままでいひつくすものにあらずとなり。支考かたはらに聞て、大に感驚し、はじめて発句といふ物を知り侍るとて、此頃ものがたり有けり。予其時も等閑に聞きなしけるにや、此事あとかたもなくうち忘侍るこそいと本意なけれ。

蘿の葉の― ⇒ 「蔦の葉や残らず動く秋の風」山本荷兮

芭蕉は「蔦の葉や残らず動く秋の風」を挙げて、発句はこのように細部にわたってまで表現するものではないと言った。支考は大いに感動したと話していたが、去来は忘れてしまっていた。

下臥につかみわけばやいとざくら

先師路上にて語り給ふ。此頃、其角が集に此句あり、いかに思うてか入集しけむと。去来曰、糸ざくらの十分に咲きたる形容、よくいひおふせたるに侍らずや。先師曰、いひ課て何かある。予ここにおいて肝に銘ずる事あり、はじめて発句になるべきことと成まじき事とを知れり。

其角の句集にあるこの句はいったい、何を思って採用したのだろうと芭蕉が言う。去来は、糸桜が十分に咲いた様を言い果していると言ったが、芭蕉は、「言い果して何になるのだ?」と言った。

手をはなつ中に落けり朧月 去来

魯町に別るる時の句也。先師曰、此句悪しといふにはあらず、功者にてただいひまぎらかしたるなり。去来曰、いかさまにさしてなき事を句上にてあやつりたる所あり、しかれども、いまだ十分に解せず、予が心中に一物侍れども句上にあらはれずと見ゆ、いはゆる是は意到句不到也。

魯町 ⇒ 芭蕉門人の向井魯町。去来の弟。

芭蕉はこの句を評し、悪いというわけではないが、技巧が過ぎて、情景がぼやけていると。去来は、大したこともないことを句の中で操って、心中が十分に表現されてない「意到句不到」であると考えている。

泥亀や苗代水の畦うつり 史邦

猿蓑の撰に、予誤つて畦つたひと書入れたり。先師曰、畦うつりと伝ひと形容風流各別なり、殊に「畦うつりして蛙鳴くなり」ともよめり、肝要の気色を誤る事、筆の罪のみにあらず、句を聞事のおろそかなる故なりとてきげんあしかりけり。

史邦 ⇒ 芭蕉門人の中村史邦。

猿蓑の編集時、「畦うつり」を「畦つたひ」としてしまった。小さな違いに見えるかもしれないが、大きな違いだと、芭蕉は機嫌が悪かった。

じだらくに居れば涼しき夕べかな 宗次

さるみの選の時、今一句の入集を願ひて数句吟じ侍れど、取るべき句なし。一夕先師の傍に侍りけるに、いざくつろぎ給へ、我れも臥しなんとおほせられければ、御ゆるし候へじだらくに居れば涼しく侍ると申しければ、先師曰く、是こそ発句なれとて、今の句に作りて入集せさせ給ひけり。

宗次 ⇒ 芭蕉の門人。

猿蓑への入集を願い出て数句詠んだものの中に、これといったものが無かった。ある夕方、芭蕉の傍にいて「私も横になるから寛ぎなさい」と言われた時に、「御ゆるし候へ、じだらくに居れば涼しく侍る」と応えると、芭蕉はこれこそが発句だと言った。

霊棚の奥なつかしや親の顔 去来

はじめは、面影のおぼろにゆかし魂祭といふ句なり。此時添書に、祭時は神いますが如しとやらむ、霊棚の奥なつかしく覚え得るよしを申し贈る。先師返事に、霊祭尤の意味ながら此分にては古びに落申べく候、註に霊棚の奥なつかしやと侍るを何とて句になさざるやとおどろかし給ひけり。

はじめは「面影のおぼろにゆかし魂祭」という句だったが、芭蕉は古臭い句だと言った。この時、添書にあった「霊棚の奥なつかし」を、なぜ句にしないのかと驚いていた。

夕すずみ疝気おこして帰りけり 去来

予が初学の時、発句の仕やう窺けるに、先師曰、発句は句つよく俳意たしかに作すべしとなり、誠に此句を賦して伺ひければ、又是にても大笑し給ひけり。

去来が駆け出しの頃、発句は強く、意味が伝わるように作りなさいと、芭蕉に言われた。腰や下腹の内臓が痛む病気のことを詠んだこの句を出すと、大笑いされた。

つかみあふ子どものたけや麥畠 游刀

凡兆曰、是麥畠は麻畠ともふれんか。去来曰、麥麻になりても、よもぎになりてもくるしからずと論ず。先師曰、又ふれるふれぬの論かしがまし、無用なりと制し給ひけり。見る人察せよ。

游刀 ⇒ 芭蕉の門人。

この句に関して凡兆は、麥畠は麻畠に置き換えることが出来ると言った。去来は、麥麻でも蓬でもいいと言った。芭蕉は、こういう論はやかましいだけだ。見る人が察したら良いと言って、制止した。

いそがしや沖のしぐれの眞帆片帆 去来

去来曰、猿蓑は新風の始なり、時雨は此集の美目なるに、此句仕そこなひ侍る、ただ「有明や片帆にうけて一時雨」といはば、いそがしやよりも、句のはりよく、心のねばり少なからん、眞帆もそのうちにこもりてん。先師曰、沖の時雨といふも又一ふしにてよし、されど句ははるかにおとり侍るとなり。

「猿蓑」において「時雨」の項は最も重要なところであったが、去来はこの句を失敗作だと思い、「有明や片帆にうけて一時雨」とすれば良かったと言った。芭蕉も、「沖の時雨」というのも良いが、たしかに「有明や片帆にうけて一時雨」の方がはるかに良いと言った。

兄弟の顔見あはすやほととぎす 去来

去来曰、此句は五月廿八日曽我兄弟の互に顔見合ける頃、子規なども打鳴きけむかし、むかし光源氏の村雨の軒端にたたずみ給ひしを、紫式部がおもひやりたる趣をかりて作す。先師曰、曽我とのばらとは聞きながら、一句いまだいひおほせず、其角が評も同前なりと、深川より評し給ふ。許六曰、此句は心餘りて詞たらず。去来曰、心餘りて詞たらずといはんははばかりあり、ただいひおほせぬとも評すべし。丈草曰、今の作者はさかしくかけ廻りぬれば、是等は合点の内なるべしと共に笑けり。

この句は、5月28日の曽我兄弟の仇討ちで互いに顔を見合わせた時、あの世とを繋ぐ時鳥も鳴いただろうと、源氏物語の「亡き人を偲ぶる宵の村雨に濡れてや来つる山ほととぎす」を借用したものである。芭蕉は、不十分と評価し、其角の評も同じであると便りをよこしてきた。許六は、「感情の先走り」だと言ったのに対し、去来は「そうじゃない」と否定し、「ただ言い足りてないだけだ」と主張。丈草は、今の作者は忙しく駆け回っているので、これもまた納得の上での評だと言う。

につと朝日にむかふ横雲

青みたる松より花の咲きこぼれ 去来

先には「すつべりと花見の客をしまひけり」と附侍るが、先師の顔つきをかしからざれば、又前を乞うて此句を附なほす。先師曰、いかに思ふて附直し侍るや。予曰、朝雲ののどかに機嫌よかりしを見て、初めに附侍れど、能見るに、此朝雲のきれいなるけしきいふばかりなし、これをのがしては詮なかるべしと思ひ附直し侍るといへり。先師曰、やはり初めの句ならば三十棒なるべし。猶蔭高きを直すべしとて、今の五文字にはなりけり。

初めは「につと~」の前句に対して「すつべりと花見の客をしまひけり」と付けたが、芭蕉がいい顔をしなかったので、付けなおした。芭蕉が何を思って付けなおしたのかと問うと、「朝雲」の長閑さを受けて付けたが、美しさに欠けると思いなおして、「蔭高き松より花の咲きこぼれ」とした。芭蕉は、最初の句ならば処罰ものだと言い、「蔭高き」を直して現在の句になった。

梅にすずめの枝の百なり 去来

是は歳旦の脇なり。先師深川にて聞て曰、此梅は二月の気色なり、去来いかにもおもひ誤て歳旦の脇には用ゐけるとなむ。

脇 ⇒ 連句の第二句。

この句は、二月の雰囲気が漂っていると芭蕉は言った。なぜ歳旦句に付けたのかと言われた。

船にわづらふ西國の馬 彦根の句也

許六こころみの点を乞ひける時、此句に長をかけたり。先師曰、いまはかかる手帳らしき句はきらひ侍る、是等は手帳なり長あるべからず。重ねて上京の時、此句何故に手帳に侍るや。先師曰、船の中にて馬の煩ふ事はいふべし、西國の馬とまではよくこしらへたる物なりとなむ。

長 ⇒ 長点。
手帳 ⇒ 巧みすぎて言い過ぎた感のある観念的な句。

この句に「長」をつけると、芭蕉は「手帳」だと言って非難した。駄馬とされる「西国の馬」が船酔いするというのは、いかにも作為的である。

弓張の角さし出す月の雲 去来

去来問曰、此句も手帳なるべきや。先師曰、手帳ならず、雲も角も弓張月もいはねば一句きこえず。

この句も「手帳」かと問うと、雲も角も弓張月も、欠かしてはならないものだと芭蕉は答えた。

丁稚が擔ふ水こぼしけり 凡兆

初めは糞なり。凡兆曰、尿糞の事も申すべきか。先師曰、嫌べからず、されど百韻といふとも二句に過べからず、一句なくてもよからむ。凡兆水に改む。

はじめは「丁稚が擔ふ糞こぼしけり」だった。芭蕉が、百韻に糞尿の句は2句を超えてはならないというので改めた。

前句 ほんとぬけたる池の蓮の實

咲く花にかき出す縁のかたぶきて 芭蕉

此前句出る時、去来曰、かかる前句をのがすべからずとて、数刻案じたれど皆々なし。先師に附句を所望しければ、斯こそ附給へれ。

この前句に付ける者がいなかったので、芭蕉に付けてもらった。

くろみて高き樫木の森

咲く花に小さき門を出つ入りつ 芭蕉

此前句出ける時、去来曰、前句全体樫の木の森の事をいへり、その気色を失はず花を附る事むづかしかるべしと。先師の附句を乞ければ、斯付て見せ給ぬ。

この前句の樫木の森の泰然とした様に、花の句を付けることは難しいだろうというと、芭蕉はこの句を付けて見せた。

綾の寝まきにうつる日の影

なくなくも小さき草鞋もとめかね 去来

先師曰、よき上臈の旅なるべしとぞ。予これをききて、頓に此句を附侍りける。好春曰、上臈の旅とききて言下に句出たり、蕉門の徒の修練格別也と感ず。

好春 ⇒ 芭蕉門人の坂上好春。

身分の高い女性の旅を詠んだものだと聞いて、この句を付けた。状況を聞いてすぐに句が出るのは、蕉門の素晴らしいところだと好春が言った。

二つにわれし雲の秋風 正秀

中連子中きりあくる月影に 去来

正秀亭の第三なり。初めに「竹格子影もまばらに月澄て」と付侍けるを、先師かくは斧正し給けり。其夜ともに曲翠亭に宿す。先師曰、今夜初て正秀亭に会す、珍客なれば発句は我なるべしと兼て覚悟すべき事也。其上発句と乞はば好悪をえらばず早く出すべき事也、一夜のほど幾ばくかある、汝が発句に時をうつさば今宵の会むなしからむ、餘り不興のいたりなれば、我が発句を出すべしとて、其夜は先師の発句なりし。正秀忽脇を賦す。二つにわるるとはげしき雲の気色なるを、かくのびやかなる第三附る事、前句のけしきを探らず、未練の事なりと、夜すがらいかり給ひける。去来曰、其時に「月影に手のひらたつる山見えて」と申す一句侍りけるを、ただ月の殊更にさやけき処いはんとのみなづみて、位をわすれ侍ると申き。先師曰、其句を出さばいくばくのましならん、此度の膳所の恥を一度すすがん事を思ふべしと也。

正秀 ⇒ 芭蕉門人の水田正秀。
曲翠 ⇒ 芭蕉門人の菅沼曲水。

最初は「竹格子影もまばらに月澄て」と付けたのを、芭蕉が改めた。その夜、発句を出さなければならなかったが、もたもたしていて結局芭蕉が出した。それを芭蕉が咎めた上で、さらにこの第三句が脇句の激しさにそぐわないと怒られた。その時、月の清かなる様を言いたかったため出さなかった「月影に手のひらたつる山見えて」という句があったと言うと、その句なら幾らかはましであったと。今回の恥辱はどこかで晴らしなさいと言われた。

分別なしに恋をしかかる 去来

浅茅生におもしろげつく伏見脇 芭蕉

先師京より野坡方への文に、此句を書出し、此辺の作者いまだ此甘味をはなれず、そこもと随分軽みをとり失ふべからずと也。

野坡 ⇒ 志太野坡
浅茅生 ⇒ 「浅茅生の小野の篠原しのぶれどあまりてなどか人の恋しき」後撰集 参議等

芭蕉が京都から野坡に宛てて、「こちらではまだ甘味を離れられない。あなたは軽みを忘れてはならない」と。

赤人の名はつがれたりはつ霞 史邦

先師曰、中の七文字よくおかれたり、発句の長高く意味すくなからず。

史邦 ⇒ 芭蕉門人の中村史邦。

中七がよく考えられている。格調高く、多彩さがある。

駒牽の木曾やいづらん三日の月 去来

今や引くらん望月の駒といへるをふりかへて、木曾や出らん三日の月といへり。先師曰、此句は算用を合せたる句なりとあざけり給へり。

望月の駒 ⇒ 「逢坂の関の清水に影見えて今や引くらん望月の駒」拾遺和歌集 紀貫之

8月16日の宮中行事に合わせて、木曾を出る時の三日月を詠んだものであるが、計算し尽されていると芭蕉がさげすんだ。

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