去来抄

末成俳句

「去来抄」は、松尾芭蕉の高弟であった向井去来によって書かれた、芭蕉研究に欠かせない書物である。その内容は、上中下の三部構成となっており、それぞれ「先師評」「同門評」「修行教」とタイトルがつけられている。その二番目の「同門評」は、40項に分かれ、それぞれの項目で取り上げられた句に対する、芭蕉の門人同士の議論が掲載されている。

去来抄 中 同門評

腫ものに柳のさはるしなひ哉 芭蕉

浪化集に、さはる柳と出せり。是は予が誤り伝ふるなり。かさねて史邦が小文庫に柳のはさると改出す。支考曰、さはる柳なり、いかで改め侍るや。去来曰、さはる柳とはいかに。支考曰、しからず、柳の直にさはりたるなり、さはる柳といへば両様に聞え侍る故かさねて予が誤を正す。支考曰、吾子の説は行過たり、只障る柳と聞べし。丈草曰、詞のつづきはしらず、趣向は支考がいへる如くならむ。去来曰、流石の両士ここを聞給はざる口惜し、比喩にしては誰々もいはん。直にさはるとはいかでか及ぶべき、格、位も亦各別なりと論ず。許六曰、先師の短尺にさはる柳とあり。其上柳のさはるとは首切れなり。去来曰、首切の事は予が聞く処に異也、今論に及ばず、先師の文に柳のさはると慥にあり。許六曰、先師あとより直し給ふ句多し、真蹟も證としがたしとなり、三子皆々障る柳の説なり。後賢猶判じたまへ。
去来曰、いかなる故にやありけん、翁、此句は汝に渡し置、かならず人に沙汰すべからずと江府より書贈給ふ。其後大切の柳一本去来にわたし置けるとは、支考にも語たまふ。其頃となみ、続猿両集にも除れけるに、浪化集撰の半に先師遷化ありしかば、此句のむなしく残らん事を恨て、其入集にはまゐらせける。

浪化集 ⇒ 浄土真宗の僧で俳人の浪化による1695年の著書。
史邦 ⇒ 芭蕉の門人の中村史邦。
支考 ⇒ 各務支考
丈草 ⇒ 内藤丈草
許六 ⇒ 森川許六
となみ ⇒ 浪化による1695年の著書浪化集下「となみ山」。
続猿 ⇒ 1698年沾圃撰の俳諧集「続猿蓑」。

浪化集には「腫物にさはる柳のしなへ哉」で出ているが、それは誤りであると去来が指摘。それに対して支考が、「腫れものにさわる」をふまえて、なぜ改めるのかと反論。許六は芭蕉の短冊に「さはる柳」とあると言い、「柳のさはる」では首切れだと言う。芭蕉の真蹟に「柳のさはる」とあると言えば、許六は、あとから直した句も芭蕉には多いと言う。けれども、どんな理由があろうとも、この句は芭蕉が去来に託したものである。それは、支考にも伝えられている。浪化集を編集している途中で芭蕉が亡くなってしまったので、この句を惜しんで浪化集に入れたというのに、この誤りが惜しまれる。


雪の日に兎の皮の髭つくれ 芭蕉

魯町曰、此句意いかが。去来曰、前書に子どもと遊びてとあれば子どもの業と思はるべし、強ひて理會すべからず、機発を踏破して知るべし、先師此句を語給ふに、予甚感動す。先師曰、是を悦ばん者越人と汝のみならむと思ひしに、はたしてしかりとて殊さらの機嫌なりし。世人或云、雪は越後兎の像に似たり。或云、兎の皮の髭作るは雪中の寒ければなり、などいろいろ理屈をつけて見るこそかた腹いたし。斯くのごとく解さば「暑き日に猿わが髯をはやしけり」の類ひなるべし、いと浅間し。

魯町 ⇒ 去来の弟の向井魯町。
越人 ⇒ 越智越人

魯町に句評を求められ、前書に「子どもと遊びて」とあるから、子供のこととして考えてみるも、強いて理屈を捨ててみる。芭蕉は、この句を褒めるのは去来と越人だけだろうと、機嫌がよかった。世の人は、雪は越後兎の像に似ているとか、寒いから兎の皮の髭を作るとか言っている。このように理解すれば、曲翠の「暑き日に猿わが髯をはや(ず)しけり」のようになる。


山路来て何やらゆかし菫草 芭蕉

湖春曰、菫は山によまず、芭蕉俳諧に巧なりといへども歌学なきの過なり。去来曰、山路にすみれを詠みたる證歌多し、湖春は地下の歌道者なり、いかで斯くは難じられけん、いとおぼつかなし。

湖春 ⇒ 北村湖春

湖春が、歌学では菫と山のとりあわせはないという。去来は、山路に菫を詠んだ歌は多くあるとし、湖春は地下の歌道者だと言う。


笠提て墓をめぐるや初時雨 北枝

先師の墓詣ての句也。許六曰、是は脇よりいふ句也、自ら疑ひ有てやとはいはん。去来曰、やは治定嘆息のや也、常に人を訪ふには笠を提て門戸にこそいれ、是は思ひの外に墓をめぐる事かなといへる事也、凡発句は一句をもて聞べし。笠提て門に這入るやといはば、疑なく外人の事なるべし。

北枝 ⇒ 立花北枝
凡 ⇒ 野沢凡兆

芭蕉の墓参りの句。許六は、自らの疑問を掲げて「や」とは言わないから、第三者の句のようであるという。去来は治定嘆息の「や」だと言う。これは、思いがけず墓参りをした時のものである。凡兆は、発句とは一物仕立てであるべきで、「笠提て門に這入るや」と言えば、疑いようもなく第三者の句になると言った。


春の野をただ一のみや雉子の聲 野明

はじめは「春風や廣野にうてぬ雉子の聲」なり。去来曰、うてるうてぬはあたり合てやかまし、廣き野をただ一のみやといはんかたやまさらん。丈草曰、廣の字猶いやし、春の野とあらむか。去来心服す。

野明 ⇒ 芭蕉の門人の坂井野明。

はじめは「春風や廣野にうてぬ雉子の聲」だった。去来は、「打てる打てぬ」は当たりあって喧しく、「広い野にただ一のみ」というのが勝ると言った。丈草は、「広」の字は卑しいと言い、「春の野」に改めた。


馬の耳すぼめて寒し梨子の花 支考

去来曰、馬の耳すぼめて寒しとは我もいはん、梨子の花とよせられし事妙也。支考曰、何のかたき事か有らん、吾子の如くかしらより一すぢにいひくださむこそ難き事なれと諭ず。曲翠曰、二子互にえたる処を易とし、得ざる所を難しとす。其論とも尤なり、しかれども総体をいはば、一すぢにいひ下さんはかたかるべし。去来曰、翠亦えられざる故なり。凡そ修行は我が得たる処をやしなひ、いまだえざる処を学ばば次第にすすみなん。おのれ纔に得たる所になづみて、他の勝りたるをうらやまずば、功をなす事終にあるべからず。

曲翠 ⇒ 芭蕉の門人の菅沼曲水。

「馬の耳すぼめて寒し」とは詠めるけれども、「梨子の花」をとり合わせる事は妙手であると去来が言った。支考は、去来のように何気なく一気に言い下す方が難しいと言う。曲翠は、お互いに得意なところを簡単とし、そうでないところを難しいとしていると言う。けれども、何気なく一気に言い下す方が、総体的には難しいと。去来は、それは曲翠が習得できていない部分だからだと言う。修業は、得意なところを修養し、そうでないところを学べば進むものである。得意なところばかりに固執していては、成功することもない。


白水のながれも寒き落葉哉 木導

其角曰、もはいま一ツあるの詞なり。去来曰、角はこれを亦もとおもへるにや、是等は力もなるべし、寒きは冬の惣体也。

木導 ⇒ 芭蕉の門人の直江木導。
其角 ⇒ 宝井其角

其角は、「も」を「またも」の意味にとらえているが、冬はどこでも寒いのだから、ここでの「も」は「かも」の詠嘆である。


うの花に月毛の駒の夜明かな 許六

去来曰、予此趣向ありき、句は有明の花に乗込といひて、月毛駒蘆毛馬とは詞つまれり、の文字を入れば口にたまれり、餃馬は雅ならず、紅梅、錆月毛、川原毛などおもひめぐらして、首尾せざりしが、其後許六が句を見て、不才を嘆ず、ここに畠山左衛門佐といへば大名の名と成り、山畠佐左衛門といへば一字をかへず庄屋の名なり。先師曰、句ととのはずんば、舌頭に千転せよとありしも此事也。

去来にもこの句のような趣向に陥り、詞に詰まったことがあった。畠山左衛門佐と言えば大名、山畠佐左衛門と言えば庄屋の名になるようなものである。句が整わないなら何度も舌先で復誦しなさいと言っていた、芭蕉の教えが思い出された。


起きさまにまそつと長し鹿の足 杜若

乾鮭と鳴鳴行くや油づつ 雪也

鶯の鳴て見たればなかれたか 作者しらず

去来曰、伊賀の連衆にあたなる風あり、是則先師の一体也、遷化の後ますます多し、斯くのごとくの類なり、其愚なるには及びがたし。支考曰、伊賀の句はさせることなきもあれど、いやみなし、伊賀の連衆は上手なり。

杜若 ⇒ 芭蕉の門人の土田杜若。
雪也 ⇒ 芭蕉の門人の広岡雪芝。

これら伊賀蕉門の人の句の、素直な愚直さに、我々は及ばないと去来が言う。伊賀の句は大したことはないように見えて嫌みがなく、上手であると支考が言う。


鶯の舌に乗てや花の露 半残

去来曰、乗らずやといはば風情あらじ。乗けりといひては句になるまじ。てやの文字千金なり。半残は実に手だれ者也。丈草曰、てやといへるあたり、上手のこま廻しを見るがごとし。

半残 ⇒ 芭蕉の門人の山岸半残。

「乗らずや」と言えば風情がなく、「乗りけり」と言えば句にならない。「てや」を用いたことが素晴らしい。丈草はそれを、上手なコマ回しを見るようだと言った。


うぐひすの身をさかさまに初音哉 其角

鶯の岩にすがりて初音かな 素行

去来曰、角が句は暮春の乱鶯なり、初鶯に身を逆まにする曲なし、初の字心得難し。行が句は啼鶯の姿にあらず、岩にすがるはものに怖れて飛びあがりたるすがた、或は餌拾ふ時又はここよりかしこへつたひ道などするさまなり。凡ものを作するに先其の本情を知べき也、しらざる時は珍物奇言に魂をうばはれて、其本情を失ふ事有べし。角が巧者すら時にとりて過てる事多し、初学の人慎まずんばあるべからず。

素行 ⇒ 去来の門人の久米素行。

其角の句は暮春の乱鶯の図であり、初鶯はさかさまに止まったりしないから「初」の字はおかしい。素行の句は、鳴く鶯の姿ではなく、何かに恐れて飛び上がったり、餌を探していたりする様である。作句する時は、その本性を知るべきである。知らないでいると、珍物奇言に魂を奪われて、本質を見失ってしまう。其角のような者ですらそうなのだから、初心者はなおさらである。


桐の木の風にかまはぬ落葉哉 凡兆

其角曰、是先師の橿の木の等類なり。兆曰、しからず、詞つづきの似たるのみにて、こころ大にかはれり。去来曰、等類とはいひ難し、同巣の句なり、同巣を以て作せば、予が凩の地にも落さぬ時雨かなといふ巣をかりて、瀧川の底へふりぬく霰哉と言出て、いささか手柄なし、されど兄より生れ勝さらんは又各別なり。

其角がこれは、芭蕉の「樫の木の花にかまわぬ姿かな」の類だと言った。凡兆は、似ているが句意は大きく違うと言った。去来は同巣の句であると言う。同巣の句とは、「凩の地にも落さぬ時雨かな」という句から「瀧川の底へふりぬく霰哉」ができたようなものである。これでは大したことはないが、より優れた句ができたなら別である。


駒買に出迎ふ野辺の芒哉 野明

去来曰、駒買に人の出迎ふたる野辺の薄にや、又は直に芒の風情にや。野明曰、薄の上なり。去来曰、はじめよりさは聞侍れど、吾子の俳諧の斯く上達せんとは思はざりし故、ただおどろき入侍るのみ。支考曰、句の秀拙はともかくも、野明此場をしらるる事いと不審也と感吟す。予、此人を教る事年あり。曾て通ぜず、一とせ先師廿日ばかりの旅寝に供せられしより抜群上達せり。常に俳友なく修行むなし。然れども先師をはじめ丈草支考など折ふし会吟して、外のわる功をしられぬ故、おのづからかかる句も出来めり、誠に手筋を尊むべし、只平生作意の弱きを難とす。

去来が、駒を買いに出たススキ野原のことか、あるいはススキが出迎えている風情かと尋ねると、野明はススキが出迎えている風情と答えた。それを聞いて、その上達具合に驚かされた。支考も、句の秀拙はともかくも、この境地に達するとは不思議なものだと、感激して吟じている。去来は野明を教えてきたが、なかなか通じなかった。前年、芭蕉と二十日ばかり一緒に生活してから、抜群に上達した。普段は俳友がいなかったが、芭蕉や丈草・支考らに会って、外部の悪い風潮とも遮断されたが故に、自然にこのような句もできたのだ。ただ、普段は作意が弱いのが欠点であるが。


あらし山猿のつらうつ栗の毬 小五郎

花散て二日居れぬ野原かな

正秀曰、嵐山は少年の句にして、しかも風情あり。落花は悪功の入りたる所見えて、少年の句といひ難し。去来曰、二日をられぬといへるあたり、他流の悦ぶ処にして、蕉門の大に嫌ふ処なり。

正秀 ⇒ 芭蕉の門人の水田正秀。

「嵐山」は少年の句で、しかも風情があると正秀が言う。「花散て」は、悪巧が入って、少年の句らしくない。去来は、「二日居れぬ」というところなど、他流ではもてはやすだろうが、蕉門では嫌うものだと言う。


散時の心安さよけしの花 越人

其角、許六ともに云。此句はいひおほせざる故に、僧に別るるとて、といへる前書あり。去来曰、罌粟一体の句としていひおほせたり、餞別となして猶見処あり。

其角・許六ともに言うことには、この句は言いおおせることがないために「僧に別るるとて」という前書がある。去来は、ケシの句として十分に言いおおせており、餞別としても見どころがあると言う。


電のかきまぜて行く闇夜かな 去来

丈草、支考ともに曰、下の五文字過たり、田つら哉とも有たし。去来曰、物を置くべからず、ただ闇夜なり。両士曰、最句にして拙しと論ず。其後丈草に語て曰、退て思ふに、両士は電の句と見らるるならん。只電の後の闇夜の句也、故に行とは申侍る。丈草曰、さばかりはえ聞ざりき、いかが侍らん。

丈草・支考ともに、下五は「田つら哉」とした方が良いと言う。去来は、ただ闇夜であり、物を置いてはならないと言う。両氏は、それなら拙いという。その後、丈草に「雷の句だと思っているだろう」と尋ねた。これは雷の後の闇夜の句である。それゆえ「行く」と言うのであると言うと、丈草は、「そうだったのか、どうしようか」と言った。


ほととぎす帆裏になるや夕まぐれ 先放

はじめは下を明石潟といへり。渡鳥集にあらため出せり。可南曰、いかなる故にや。去来曰、時鳥帆裏になるやといふにて景情たれり、此うへに明石潟をもとむるはこころのねばりならんか。可南曰、同集に卯七が子規も明石なり、いかがかはり侍るや。去来曰、卯七が発句は趣向を二つ三つとりかさねて作するものにあらず。又下意を持せて作することは格別なり。

先放 ⇒ 去来の友人の先放。
渡鳥集 ⇒ 向井去来・箕田卯七編(1704年刊)。
可南 ⇒ 去来の妻とも妾とも。
卯七 ⇒ 去来の甥の箕田卯七。

はじめは下五を「明石潟」にしていた。それを渡鳥集で改めた。それを可南が何故かと問う。去来は、「ほととぎす帆裏になるや」で十分に情景描写ができているので、明石潟を持ってくるのは執着のなせる業であると言う。可南は、渡鳥集の卯七のほととぎすの句(ほととぎす当てた明石もずらしけり)も、明石であると反論。卯七のは、趣向を重ねているものではなく、意思を持たせているのであると、去来は言った。


とられずば名も流るらん紅葉鮒 玄梅

許六曰、是を説経ばねと云ふ、感ぜん者こそなかりけりの類也。又曰、人あり路上にて人にあひて、上へや行くべし、下へや行くべしと道を問ふがごとし、てにをはあはず。去来曰、上へや行くべしといふは上を疑ひて、下を決したるゆゑ語路不通なり、又疑ひて決するといふてにはにもあらず、此紅葉鮒は、上に疑ひありて下をはねたればくるしからず、又らんはらしにかよふ也。許六曰、あながちにはねたるをいはず、總體てにはあしき也。

玄梅 ⇒ 芭蕉の門人の石岡玄梅。

許六は、これを「感ぜん者こそなかりけり」の類の説教跳だという。また、路上で「上へや行くべし、下へや行くべし」と道を問うかのように、「てにをは」の使い方がおかしい。「上へや行くべし」と言うのは、「や」が疑いの文字「べし」が決定なので、去来は語路不通だと言う。疑った後に決したというものでもない。紅葉鮒は、「とられずば」と疑い、「流るらん」と跳ねたのであれば問題ない。また「らん」は、「らし」に通じる。許六は、跳ねばかりにこだわっているのではない、全体に悪い句だと言う。


鞍壺に小坊主のるや大根引 芭蕉

風國曰、此句いかなる処か面白き。去来曰、吾子いま解しかたからん、只圖してしらるべし、たとへば、花を圖するに、奇山、幽谷、霊社、古寺、禁闕によらば其圖よからん、よきがゆゑに古来多し、斯くのごとくの類は圖のあしきにはあらず、珍しからざればとりはやさず、又圖となしてかたちこのましからぬものあらむ、是等はもとより圖のあしきとて用ゐられず、今珍しく本情の儘なる圖あらば、是を畫となしてもよからむ、句となしてもよからん、されば大根引の傍に草はむ馬の首うちさげたらむ鞍つぼに、小坊主のちよつこり乗たる圖おほくは古からんや、拙からむや、察し見らるべし。國が兄何某、却つて國よりも感動す。かれは俳諧をしらずといへども、畫をよくする故也。畫師尚景が子なり。

風國 ⇒ 去来の甥の伊藤風国。「泊船集」の編者。

風國が、この句のどこが面白いのかと聞く。今は分からないだろうが、図にすれば分かるだろうと去来は言った。例えば、花を描くに、奇山、幽谷、霊社、古寺、禁闕を配せば良いものが描ける。良いが故に古来多く描かれてきた。そのようなものは、悪いものではないが、珍しいものではないために取り立てられることもない。また、形が好ましくないものは、そもそも図にはしないものだ。今、珍しく心に響くものがあれば、それを絵にしても句にしてもよい。大根引きのそばで草を食べている馬の鞍に小坊主が乗った図は、古いだろうか、拙いだろうか。風國の兄は、この句に感動したと言っていたが、それは絵を描くからだ。絵師である尚景の子である。


夕ぐれは鐘をちからや寺の秋 風國

此句はじめは晩鐘のさびしからぬといふ句也。句は忘れたり。風國曰、此頃山寺に晩鐘をきくに、曾てさびしからず、依て作す。去来曰、是殺風景也。山寺といひ、秋のゆふべといひ、晩鐘といひ、寂しき事の頂上也、しかるを一端游興騒動の内に聞、さびしからずといふは、一己の私なり。風國曰、此時此情あらばいかに情有とも作すまじきや。去来曰、若し情あらば斯の如くにも作せんかと今の句に直せり。勿論、句勝れずといへども本意を失ふ事はあらじ。

この句ははじめ「晩鐘のさびしからぬ寺の秋」だった。山寺に晩鐘を聞いたが、寂しくなかったのでそうしたと、風國が言った。去来は殺風景だと言った。山寺・秋の夕べ・晩鐘、どれも寂しさの最たるものだ。それを遊び心に聞き、寂しくないというのは、自己中心的である。ならば、こんな情に包まれたときはどう詠めばいいのかと、風國が問う。それならと、今の句に直した。いい句とは言えないが、本意は失われていないはずだ。


應々といへどたゝくや雪のかど 去来

丈草曰、此句不易にして流行のただ中を得たり。支考曰、いかにして斯安き筋よりは入たるや。正秀曰、唯先師の聞給はざるを恨るのみ。曲翠曰、句の善悪をいはず、当時作せん人を覚えずといへり。其角曰、真の雪の門也。許六曰、最も佳句也、いまだ十分ならず。露川曰、五文字妙也。去来曰、人々の評又おのおの其位より出づ、此句は先師遷化の冬の句なり、其頃同門の人々にも難しとおもへり。今は自他ともに此場にとどまらず。

露川 ⇒ 芭蕉の門人の澤露川。

丈草は、不易流行の決定句だと言った。支考は、どのようにしていとも簡単にできたのかと言う。正秀は、芭蕉がいたら良かったものをと言う。曲翠は、良い悪いという以前に、これを作れるのは去来しかいないと言う。其角は、真の雪の門だと言う。許六は、最も良い句だが、まだ十分ではないと言う。露川は、上五が素晴らしいと言う。評価というものは、それぞれの立場から出てくるものであると、去来は言う。この句は、芭蕉が亡くなった冬の句である。その頃は、同門の者にも難しいと思われていたが、今では私も他の者も、そこにとどまってはいない。


幾年の白髪や神の光りかな 去来

大宰府奉納の句なり。許六曰、発句に切字二つ用うるは法あり、此句切字二つの病あり。去来曰、予曾て切字二つあるにこころなし、ふたつ有ともこれを切字に用ひず。

大宰府奉納句として作ったものであるが、許六が、発句に切字が二つあるのは良くないと言った。去来は、そんなことは今まで気にしたこともなかった。二つあると言っても、これは切字として用いたのではない。


白雨や戸板もさゆる山の中 助童

去来曰、此句初学の工案ながら、句體風姿あり、語路滞らず、情ねばりなく事あたらし、最当時流行のただ中也、世上の句おほくは兎する故に角こそあれと、句中にあたりあひ、或は目前をいふとて、ずんと切の竹にとまりし燕、暖簾の下くぐる事のみなり。此兒此下地ありてよき師に学ばば、いかばかりの作者にか至らむ、第一はまだ心中に理窟なき故なり、もし悪巧の出来たるにおよんでは、又いかばかりの無理いひにもなりなん、怖るべし。

助童 ⇒ 久芳助童。

この句は、まだ初心者のものではあるが、素晴らしい。流行の真っただ中をいく句である。この頃の句は、兎に角こうだと、句の中でぶつかりあったり、目先のことをとらえようと、「ずんと切の竹にとまりし燕」とか「暖簾の下くぐる」などと言っている。この作者は、良い師に学べば、すごい作者となるだろう。いまはまだ理屈がないから良いが、悪巧が勝ってきたら、無理なことばかり言うような者にもなるだろう。恐ろしい。


さびしさや尻から見たる鹿の形 木導

許六曰、此句は「入鹿のあと吹送る萩の上風」といへる等類也。去来曰、吹送るの歌は朝鹿の山に帰る気色をいへり、これは鹿一體のさびしさをいへり、趣意各別なり、等類なるまじ。

木導 ⇒ 許六の門人の奈越江木導。

許六が、この句は「入鹿のあと吹送る萩の上風」と趣向が同じだと言った。去来は、吹送るの歌は朝鹿の山に帰っていく景色で、これは鹿の寂しさを詠んだものだから、違うと言った。


唐黍にかげろふ軒や霊まつり 洒堂

洒堂曰、路通いへるは、唐黍は粟にも稗にも触るべし、発句となしがたしと也。去来曰、路通いまだ句の花実をしらざる故也。此句は軒の草葉に火影のもれたる、賤が霊祭を賦したる也、一句の実ここにあり、其草葉は唐黍にても粟稗にても、其場に叶たる物を用うべし、是は一句の花也、実は霊祭にて動べからず、動けば外の句也、花はいくつも有るべし、其内雅なるを撰用のみ。

洒堂 ⇒ 芭蕉の門人の浜田洒堂。
路通 ⇒ 八十村路通

路通が、唐黍は粟にも稗にも変えられる動く句だと言ったと、洒堂が言う。路通はまだ句の花実を知らないからそう言うのだと、去来が言った。この句は、軒の草葉から火影がもれてくるような貧しい家の霊祭を詠んだものである。そこにおける草葉は何でもいい。それは、句における花である。実は、霊祭というところで動いてはならない。


霊祭うまれぬさきの父恋し 甘泉

去来曰、吾子は出生以前に父を喪し給ふや。甘泉いはく、去々年送葬し侍る。去来曰、然らばこれは他人の句也、吾子に対してをかしからず、凡そ発句を吟ずるに、意は聖賢佛神の境にも遊ぶべし、処は禁裏仙洞のうはさも申すべし、乞食桑門の上にもおよぶべし、句においては身上を出べからず。身外を吟ぜばあしき害を求め侍らん。

甘泉 ⇒ 椎本才麿門の甘泉とは別人か。

あなたは、生まれる前に父を亡くしたのかと、去来が聞くと、甘泉は一昨年亡くしたと言った。それならこれは他人の句である。発句を吟じるのに、心はいかなるところに遊んでも良いが、句は、決して自分のところから踏み出してはならない。そうしなければ、悪いことが起こるだろう。


御命講やあたまの青き新比丘尼 許六

去来曰、七字斯いひくださんはいかが。是を直さば一句しをり出来らん。許六曰、しをりは自然の事也、求て作すべからず、是は七字を以て発句となる也、其角もさこそと評し侍る。

「あたまの青き」というのは如何なものかと去来が言った。これを直せば「しおり」ともなるだろうに。許六は、「しおり」は自然に生じるもので、作ってはならないと言った。其角もそう言っていると。


門口や牛王めくれて初しぐれ 作者不知

去来曰、此句彦根より見せられたるに、其角が弱法師の門札の句と等類と評す。予、甚誤なり。其頃は少し似たる事もけばけばしく嫌ひ除て、一句の惣体をしらず、門といひ札といふにて、はや等類の評をなせり、いと浅間し。

この句を見せられた時、其角の「弱法師わが門ゆるせ餅の札」と同類だと思った。その頃は、少しでも似ていたら嫌って、全体的なものを評価することがなかった。「門」「札」を感じただけで、同類と感じた。浅ましかった。


猪の鼻ぐすつかす西瓜哉 卯七

去来曰、させる事なし、三四分の句なり。正秀曰、猪なればこそ鼻はぐすつかしけんと甚だ悦びたり。其後先師も一興ありとなり。去来曰、退て思ふに、此頃未だ上方には西瓜めづらしければ、正秀もさおもふ心より、猪のあやしみたるとは風情聞出せり、予は西国うまれにて、西瓜も瓜茄子のごとく、さしてめづらしともおもはざりければ、曾て心ゆかざりけり、總て人の句をきくに、我がしる場としらざる場とにたがひ有るべし、虎の噺を聞て追れたる人の汗をながしたりといへる類也。

去来はこの句を、大したことのない三四分の出来だと言った。正秀は、猪だから鼻をぐずつかすととても喜んでいた。芭蕉も面白いと言った。一歩引いて考えるに、上方では西瓜は珍しいから、正秀もその珍しさから、猪も珍しがるものだとの情景が浮かぶのだろう。私は西国生まれで西瓜も瓜や茄子のように、さして珍しいものではなかったから、評価できなかった。人の句も、自分が知っていることと知っていないことでは、評価に違いが出てくる。虎の話を聞いて、追われた経験のある人が汗を流すのと似たようなものだ。


饅頭で人を尋よやまざくら 其角

許六曰、是は謎といふ句也。去来曰、是はなぞにもせよ、いひおほせざる句也、たとへば提燈で人を尋よといへるは、直に提燈もてたづねよ也、これはまんぢうをとらせんほどに、人をたづねよといふ事を、我ひとり合点していへるもの也。むかし聞句といふ物あり。それは句の切り様、或はてにをはのあやをもて聞く句也。此句は其類にもあらず。

許六が、これは謎のある句だという。去来は、謎ではあるが、言いおおせない句だと言う。例えば、提燈で人を尋ねよと言えば直接的であるが、これは、饅頭をやるから人を訪ねよということを、一人合点して言い表しているのだ。みかし「聞句」というのがあったが、それは句の切り方、「てにをは」の妙味をもって、聞句であった。これは、それでもない。


あさがほに箒うちしく男哉 風毛

魯町曰、此句或人の長点也、いかが。去来曰、発句といはばいはれんのみ。杜年曰、先師の「蕣に我れはめしくふ男哉」とはいかなる所に秀拙ありや。去来曰、先師の句は其角が蓼くふ蛍といへるにて、飽まで巧たる句の答也。句上に事なし、答ふる所に趣あり。風毛が句は前後表裏一の見るべき所なし、斯のごとき句は口をひらけば出るもの也。こころみに作て見せん、何なりと題を出されよ。魯町則ち露の句を乞ふ、「露落ちて襟こそばゆき木陰哉」、又菊の題にて「菊咲いて家根のかざりや山畠」と十題十句言下に賦したり。若はらみ句の疑もあらん、一題に十句せんといふ。魯町則砧の題を出す、「娘より嫁の音よはき砧哉」「乗掛の眠りをさます砧哉」といふをはじめ、十句筆をおかず、予は蕉門遅吟第一の名ありてすら斯のごとし。況や集にも出たる先師の句なれば、各別の事ありと知らるべし。去来曰、当時世間の作者、翁の蕣の句、あるは道ばたの木槿などの句体にまよひ、あさましき句を吐出し、芭蕉流とおぼえたる族おほし。其輩にしらせんためこれを記すもの也。

風毛 ⇒ 肥前佐賀の人。
杜年 ⇒ 去来の弟・久米杜年。

魯町が、この句にある人は長点をつけたが、どうだろうと言う。去来は、発句といえばそうであるがと言う。杜年は、芭蕉の「蕣に我れはめしくふ男哉」とどこに違いがあるのかと尋ねる。去来は、芭蕉の句は「草の戸に我は蓼食ふ蛍哉」という其角の句に応えたもので、あくまで技巧をこらしたものであると答えた。風毛の句は、見るべきところがなく、口を開けば出てくるものである。ためしに作ってみるから、何なりと出題しなさいと言うと、魯町は露の句をと言う。それならと「露落ちて襟こそばゆき木陰哉」。菊の題には「菊咲いて家根のかざりや山畠」と、十題全てに句をつけた。事前に作っておいたのでは疑われてもいけないので、一題に十句をもつけようと、魯町の砧の題に「娘より嫁の音よはき砧哉」「乗掛の眠りをさます砧哉」などを詠む。私は、蕉門において一番の遅吟と言われているが、それですらこうである。だから、刊行物の中に入った芭蕉の句ならば、特別のものがあると思うべきである。世間の俳人には、蕣の句や「道のべの木槿は馬に食はれけり」などの芭蕉の句に惑わされ、浅ましい句を詠み、芭蕉流と称している者が多い。彼らに知らせるためにこれを記す。


年立つや家中の禮は星月夜 其角

元旦や土つかふたる顔もせず 去来

許六曰、当時元日といふ冠用ふまじき難あり。去来曰、元日は嫌ふべき言にあらず、やの字平懐にきこゆ、此難なるべし。此句元日といはん外なし、やは嘆美したる詞也。許六曰、其角此句を吟じ、春立といへば歳旦にあらず、元日はいひ古びたりと窺ふ。先師曰、さばかりの作者の、今日元日と云はんは拙かるべしとて、年立つやとは置給へり。又やの字に嘆賞のやといふはなし。五つのやは疑のやとは習侍る。去来曰、其角が句においては先師かくのたまふべし、予が句においてはさはのたまはじ。作者の甲乙をもて云ふにはあらず。己れ己れが志す処に違ひあり、予は珍物新詞をもて常に第二等に置き侍る、そこは先師も能く見ゆるし給へり、又嘆美のやは名目にはなし。名目を以ていはば治定にも嘆息嘆美あり、世話にも、すいたりや虎御前、切たりや武蔵坊などいふ、皆治定嘆美也と論ず。猶後賢判じ給へ。

許六は、当時、「元日」という上五は用いてはならないと言っていた。去来は、「元日」は別にいいが、「や」の字が平たく聞こえるための批評であろうと言った。この句は、「元日」という他ない。「や」は詠嘆に用いられている。許六は、其角がこの句を吟じ、「春立つ」と言えば歳旦ではなく、「元日」では古臭いといっていたと言う。芭蕉は、其角ほどの作者が今日元日というのはいけないと言って、「年立つや」とした。また、「や」の文字に詠嘆の意味はない。これは疑いの「や」である。去来は、其角の句において芭蕉はそう言ったが、私の句にはそうは言わなかったと言った。作者の優劣から言っているのではなく、各個人が志すところに違いがあり、私は「珍物新詞」は常に下等なものとし、そこは芭蕉もよく見ていた。また、詠嘆の「や」は名目にはないが、それならば治定にも詠嘆はある。世間でも「すいたりや虎御前、切たりや武蔵坊」などと言うものだ。今後判断すればよい。


風國曰、彦根の発句、一句に季節を二つ入る手くせあり、難ずべきや。去来曰、一句に季節二三有とも難なかるべし、もとより好む事にもあらず。
許六曰、一句に季節を二つ用ふる事初心のなりがたき事也、季と季のかよふ処あり。去来曰、一句に季を二つ用ふる事は巧者初心によるべからず、されど許六の季の通ふ処に習ひありといへるは、予がいまだ知らざる事也。

風國が言うに、彦根の発句には、一句に季語を2つ入れるくせがあり、いけないのではないか。去来は、二三あっても別にいいが、もとより好んでそうすべきではないと言った。
許六は、季語と季語には通うところがあり、季語を2つ入れるのは初心者には難しいと言った。去来は、季語を2つ入れるのは、初心者・熟練者で区分されるものではないが、許六の言う季語の通い合うところというのは、私がまだ知らないところだと言った。


盲より唖のかはゆき月見かな 去来

去来曰、此句は十七八年前の句なり、其頃は先師にも賞せられ世上にも聞えありし句也。尤も事新しうして感深しといへども、句位を論ずるに至つては甚だ下品也、いま蕉門の俳友中々此場にをらず、この頃、或連歌師の曰、花の下にて、此句の評あり、俳諧もかかる感情の句あればあなづりがたしとなり。是を賞せらるると聞けば、今時の連歌師はこのもしからずおもひ侍る。

十七、八年前のこの句は、芭蕉にも褒められ、世間にも聞こえた句であった。新しく、感慨深いとは言え、句位で言えば下品。今、蕉門の俳友はこの境地を脱したが、この頃、花の下の連歌師が「俳諧もこのような句を詠むとはあなどれない」と賞していたという。今時の連歌師は凋落したものだ。


牽牛花の裏を見せけり風の秋 許六

一説、此句先師の葛の葉の面見せけりと等類なりと。許六曰、等類にあらず、見せけりとは詞のむすびまで也、趣向かはれり。去来曰、等類とはいひがたし、同巣の句なるべし。たとへば和歌には「花さかぬ常盤の山の鶯はおのれ啼てや春を知らん」と云に、「紅葉せぬ常盤の山の小男鹿はおのれなきてや秋をしるらむ」とよみても等類にはならずとよ、俳諧には遠慮あるべき事也。

「葛の葉の面見せけり今朝の霜」と等類だという説がある。許六は、同じ「見せけり」ではあるが趣向が違う。去来は、等類とは言わず「同巣」の句だと言う。和歌に「花さかぬ常盤の山の鶯はおのれ啼てや春を知らん」と「紅葉せぬ常盤の山の小男鹿はおのれなきてや秋をしるらむ」は等類にはならないという。俳諧には深慮が必要だ。


しぐるるや紅の小袖を吹きかへし 去来

正秀曰、いとによるものならなくにの類にて、去来一生の句屑也。去来曰、正秀が評いまだ解し得ず、予はただしぐれもて来る嵐の路上に紅の小袖吹きかへしたるけしきは、紅葉吹きおろす山おろしの風と詠みたるうへの俳諧なるべしと作し侍るまでなり。

正秀が、歌屑と呼ばれる「糸によるものならなくに別れぢの 心細くも思ほゆるかな」という貫之の歌を取り上げて、この句を去来一生の句屑だとけなした。去来は、それに対して理解できないと言う。しぐれてくる嵐の路上に小袖が吹き返された景色であり、新古今和歌集の源信明朝臣「ほのぼのと有明の月の月影に紅葉吹きおろす山おろしの風」を踏まえた句である。


はつのゐのこに丁どしぐるる

生鯛のひちびちするを臺にのせ

どこへ行やらうらの三助

去来曰、此附句臺にのせといへる所、いのこの祝儀と極て此分過ぎたり、やはりびちびちとしてはねかへりなどあらまほし。しからば次の附句までもよからむ。かかる処より句体重くなるなり。總て一句にいひ盡したるは、あとあと附難きものなり。

この句の「台にのせ」というところは、「いのこ」から連想するに祝儀のものと限定されてしまい、次の付句がつけにくくなってしまっている。「びちびちとしてはねかえり」などとしてくれれば良かった。いい尽くしてしまうと、あとあと付けにくい。


梅の花赤いは赤いはあかいかな 惟然

去来曰、惟然坊が今の風大かた是等の類なり、発句にはあらず、先師遷化の歳の夏、惟然坊が俳諧を導き給ふに、其得たる口質の処よりすすめて、「磯浜にざぶりざぶりと浪うちて」、或は「杉の木にすうすうと風の吹き渡り」などといふを賞し給ふ。又俳諧は気鋒にて無分別に作すべしとのたまひ、亦此後いよいよ風体かろからんなど、のたまひたる事を聞まよひ、我が得手に引かけて自の集の歌仙に侍る、妻よぶ雉子あくるが如くの雪の句などに、先師評し給へる句勢、句姿などといふことの物がたりどもは、みなみな忘却せらるると見えたり。

惟然 ⇒ 広瀬惟然

惟然の今の句は、だいたいこんなもので、発句ではないと去来は言う。芭蕉が亡くなった年の夏、惟然に指導されたところから踏み入って、「磯浜にざぶりざぶりと浪うちて」「杉の木にすうすうと風の吹き渡り」などの句を褒められた。さらに、俳諧は鋭く無分別に作りなさいと言い、もっともっと軽くなどと指導されたのを聞き誤り、句勢・句姿などというものはすっかり忘れてしまったようだ。


行ずして見る五湖煎蠣の音を聞 素堂

なき人の小袖もいまや土用ぼし 芭蕉

素堂子の句は深川芭蕉庵におくり給ふ句也。先師の句は予が妹が身まかりける頃、美濃の國より贈り給ふ句なり、ともに其事をいとなむただ中に来れり。此頃ある集を見るに、先師の事ども書きちらしたるかたはしに、素堂子の句をあげ、いり蠣のただ中に来ることをもて、名人達人と誉られたり。それをもて名人といはば其そしらるる先師の句もかくのごとし、皆人の知たる事也。それのみならず、世話にも、人事いはばめしろおけといへり、一気の感通自然の妙應、かかる事もあるものとしるべし。誠に痴人面前夢を説べからずとなり。

素堂 ⇒ 山口素堂

素堂の句は、深川芭蕉庵に贈られたもの。芭蕉の句は私の妹が亡くなった時、美濃の国から贈られたもので、ともに句に詠まれたことをしていた丁度その時に届いた。この頃、ある刊行物に芭蕉のことを書き散らし、素堂の句を取り上げて、蠣を炒っている最中に来たことをもって、名人・達人と褒めていた。それをもって名人というのであれば、そしっている芭蕉の句も同様でなければならない。世間にも、「人ごと言はば筵おけ」という諺がある。このようなこともあるものだ。まことに、痴人の前で夢を語ってはならない。


梅白しきのふや鶴を盗まれし 芭蕉

去来曰、古蔵集に此句をあげて、先師の事をなじり、此句へつらへりといへり。是等は物の意を辨へずして評せり。秋風は洛陽の富家に生れて、市中を去、山家に閑居して詩歌をたのしみ、騒人を愛すと聞て、かれに迎へられ、実にかれを風騒の隠逸人とおもひ給へる文作ありしが、いかがありけむ、其後招けども行き給はず、今や批評を見るに、かれが侫諂なることを知れり。

秋風 ⇒ 富豪の三井一門で、「野ざらし紀行」の旅で京に芭蕉を招いた人。

古蔵集に、この句を取り上げて芭蕉をなじり、へつらっているというものがある。ものの意味をわきまえずに評している。秋風は京都の富豪の家に生れ、閑居して詩歌を楽しみ、詩人を愛すと聞て、招きに応じた。風流な隠逸人と思える作品があったが、どうしたことか、その後招きに応じず、今は批評を見るに、気に入られるようにふるまっていたのだという。


うぐひすの海向いてなく須磨の浦 卯七

鶯もとはじめ作せり。野坡曰、もとありたらんよりは、やはりの文字よからむ。去来も是に同じける。丈草曰、のといひて風情は侍れど、確かにもといはん方まさるべしと也。

野坡 ⇒ 志太野坡

はじめは「鶯も」だった。野坡は、「も」より「の」がいいと言った。去来も同意見。丈草は、「の」には風情があるが、「も」の方がいいと。


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