去来抄

末成俳句

「去来抄」は、松尾芭蕉の高弟であった向井去来によって書かれた、芭蕉研究に欠かせない書物である。その内容は、上中下の三部構成となっており、それぞれ「先師評」「同門評」「修行教」とタイトルがつけられている。その三番目の「修行教」は、芭蕉の展開した不易流行に基づく俳論を中心にして、芭蕉の門人同士の議論が掲載されている。

去来抄 下 修行教

去来曰、蕉門に千載不易の句、一時流行の句といふあり。是を二つにわけて教給へども、其元は一なり。不易をしらざれば基立がたく、流行をしらざれば風新にならず。不易は、古へに宜しく後に叶ふ句なる故に千載不易といふ。流行は、一時々々の変にして、きのふの風は今日宜からず、今日の風は翌日に用ゐがたきゆゑ、一時流行とははやることをいふなり。

蕉門 ⇒ 松尾芭蕉の門流。

蕉門には、永遠不変の句、一時流行の句というものがある。これのもとは同じである。変わることがないものを知らなければ土台はできず、流行を知らなければ新鮮味がない。これを「不易流行」という。


魯町曰、俳諧の基とはいかに。去来曰、詞にいひがたし。凡吟詠するもの品あり、歌は其一なり。其中に品あり、はいかいは其一なり。其品々をわかちしらるる時は、俳諧連歌はかくのごときものなりと、おのづからしらるべし。それをしらざる宗匠達、俳諧をするとて、詩やら歌やら施頭混本歌やら知れぬ事をいへり。是等は俳諧に迷ひて俳諧連歌といふ事を忘れたり、俳諧をもて文を書ば俳諧文なり、歌をよまば俳諧歌なり、身に行はば俳諧の人なり、唯いたづらに見を高くし古へをやぶり、人の違ふを手がらがほにあだ言いひちらしたるいと見苦し。かくばかり器量自慢あらば、はいかい連歌の名目をからず、はいかい鉄砲となりとも、乱聲となりとも、一家の風を立てらるべし。

魯町 ⇒ 去来の弟である向井魯町。

俳諧の基礎は何かというと、それは言葉にし難い。吟詠する中に品があるものに和歌があり、詞の中に品があるものに俳諧がある。それらの区別がつくようになった時、俳諧連歌のことが自ずから分かるようになる。それを知らないものが色々言っているが、俳諧連歌ということを忘れてしまっている。


魯町曰、不易の句の爲はいかに。去来曰、不易の句は俳諧の體にして、いまだ一のなき句なり。一時の物数奇なき故に古今に叶へり。たとへば

月に柄をさしたらばよき団扇かな 宗鑑

これはこれはとばかり花のよしの山 貞室

秋の風伊勢の墓原猶すごし 芭蕉

是等の類也。魯町曰、月を団に見立たるも物数奇ならずや。去来曰、賦、比、興は俳諧のみにかぎらず、吟詠の自然なり、凡そ吟にあらはるるもの此三つをはなるる事なし、物数奇とはいひがたし。

宗鑑 ⇒ 山崎宗鑑
貞室 ⇒ 安原貞室

不易の句はどのようなものか。不易の句は、俳諧の実体で、一時的な趣向のないものである。例句に、宗鑑・貞室・芭蕉の句を挙げる。月を団扇に見立てることも一時的な趣向ではないのかと言えば、叙事詩・比喩詩・即興詩は俳諧だけでなく、詩における基本であり、これから離れることはなく、一時的な趣向とは言えない。


魯町曰、流行の句はいかに。去来曰、流行の句はおのれに一つの物数奇ありてはやる也、形容、衣装、器物等にいたるまで、時々のはやりあるがごとし、たとへば、

むすやうに夏にこしきの暑さかな

此體久しく流行す。

あれは松にてこそ候へまきの雪 松下

海老肥えて野海老痩たるも友ならなん 常矩

或ひは手をこめ、あるひは歌書の詞つかひ、又は謡の詞とりなどを物数奇したるあり、是等も一時に流行し侍れど、今日は取上る人なし。魯町曰、むすやうに夏にこしきといふは縁にあらずや。去来曰、縁は歌の一事にして、物数奇にはあらず、手を込ると縁とはかはりあり。

松下 ⇒ 尾張津島の僧。
常矩 ⇒ 田中常矩。「蛇の助が恨の鐘や花の雲」で蛇之助常矩の通称を持つ。

流行の句はどのようなものか。流行の句は、一時的な趣向があって流行るものだ。形容・衣装・器物に至るまで、その時々に流行があるようなもので、例えば「むすやうに夏にこしきの暑さかな」のような形のものが一時的に流行ったことがある。例句のように、様々な趣向を凝らして、一時的に流行ったものもあるが、今日では取り上げる人もいない。夏は蒸せるものだから、甑とは縁語の関係ではないのかと聞くと、「縁」は歌のひとつの手法であり、一時的な趣向のものではなく、こねくり回したものとは別物であると、去来は答えた。


魯町曰、不易流行其元一なりとはいかに。去来曰、此事弁じがたし。有増人体にたとへていはば、不易は無為の時、流行は座臥、行住、屈伸、伏仰の形同じからざるがごとし、一時一時の変風是也。其姿は時に替るといへども、無為も有為ももとは同じ人也。魯町曰、風を変るには其人ありとはいかに。去来曰、本をしらずして末を変る時は、或は変風、其変風俳諧をはなれ、或は離れずといへども、つたなし。

不易流行とは言葉にしにくいものである。人体に例えるなら、不易は自然のままでいる時のようなもの。流行は、相反するものの形が異なっているようなものである。ただ、その時々に姿は変われど、もとは同じ人間である。基を知らずに変化する時というのは、その本体を離れてしまっているか、離れてないと言えども、つたないものである。


魯町曰、基より出ると出ざるとはいかに。去来曰、基をしらずしては解し難からむ、先づあらはに知れる物一つふたつをあげて物がたりす。たとへば先師の風といへども、

貞固が松けさ門に有女どもきほひ

瀧あり蓮の葉に暫らく雨をいだきしが 素堂

これらは詩か語か、又文字の数合たるにも

散る花にたたらうらめしくれの聲 幽山

此句は謎なり、俳諧歌に謎の体も有る事にや、是等はみな俳諧歌体よりはいでず、察し見るべし。

素堂 ⇒ 山口素堂
幽山 ⇒ 松江重頼門の高野幽山。

基より出るというのと出ないというのはどういうことかと魯町が聞く。基を知らなければ理解は難しい。最初の2句は語数が体をなしていない。次の句は謎である。謎歌という歌体もあるが、例句はどれも俳諧歌体をなしてはいない。


魯町曰、先師は基より出ざる風侍るにや、去来曰、奥州行脚の前はままあり、此行脚のうちに工夫し給ふと見えたり、行脚のうちにも「あなむざんやな甲の下のきりぎりす」といふ句あり。後にあなの二字を捨てられたり。是のみにあらず。異体の句などもはぶき捨給ふもの多し。此年の冬はじめて不易流行の教を説給へり。魯町曰、不易流行の事は古説にや、先師の発明にや。去来曰、不易流行は万事に渡る也、しかれどもはいかいの先達是をいふ人なし、長頭丸以来手を込る一体久しく流行し「角樽や傾むけのまふ丑のとし」「花に水あげて咲かせよ天龍寺」といへるまでに吟じたり。世の人はいかいは斯のごとき物とのみ心得つめぬれば、其風を変ずる事をしらず。宗因師一度其こりかたまりたるを打破り、新風を天下に流行し侍れど、いまだ此教へなし。しかりしよりこのかた、都鄙の宗匠達古風を用ゐず、一旦流々を起せりといへども、又其風を長くおのが物として、時々変ずべき道をしらず、先師はじめて俳諧の本体を見つけ、不易の句を立て、また風は時々変ある事をしり、流行の句変あることを分ち教給ふ、然れども先師常に曰く、宗因なくんば、我れ我れが俳諧今以貞徳の涎をねぶるべし。宗因は此道中興開山也といへり。

奥州行脚 ⇒ 1689年の「おくのほそ道」の旅。
長頭丸 ⇒ 松永貞徳の別号。
宗因 ⇒ 西山宗因

芭蕉に、基を無視したようなものがあるのかというと、おくのほそ道の旅に出るまでは結構あった。この旅の中で発見があったと見られ、旅の中で「あなむざんやな甲の下のきりぎりす」という句も「むざんやな甲の下のきりぎりす」という句に改めた。これ以外にも同じようなものが結構あるが、この年の冬にはじめて「不易流行」を説いた。不易流行は、古来いわれていたものか、芭蕉の発明によるものかと言えば、これは万事に渡るものではあるが、俳諧をするものでこれを取り上げたものはいなかった。貞門の流行で技巧に凝ったものが多くなり、世間ではそれが俳諧と思うようになった。西山宗因の談林派がそれを打ち破ったが、不易流行は言わず、今まで全国の宗匠達もそれに触れたことはなかった。芭蕉が初めて俳諧の本体を見つけ、不易の句を立て、流行の句があることを教えた。けれども芭蕉は、宗因がいなければいまだに貞門のごとき技巧に走っていただろうと、常に言っていた。宗因は、俳諧の中興の祖であると。


丈草曰、不易の句も当時其体を好みてはやらば、是も亦流行の句といふべき也。

丈草 ⇒ 内藤丈草

不易の句といっても、その体を好んで流行ることがあれば、流行の句というべきだと丈草が言った。


去来曰、蕉門に不易流行の説々あり、或は今日の一句一句の上を云説あり。是も流行にあらずといひがたし。然ども、不易流行の教といふは、はいかい本体、一時一時の変風との事也。

蕉門では不易流行に関して色々と言っている。しかし不易流行の教えとは、俳諧の本体が、その時その時に変化するところにある。


去来曰、俳諧を修行せんと思はば、むかしより時代時代の風、宗匠宗匠の体を能く考知尽べし。是をしる時は新古おのづから分る物なり。

俳諧を修行しようと思えば、昔からのどのように変化してきたかや、宗匠による違いをよく勉強すべきである。これを知れば、自ずから見えてくる。


去来曰、俳諧の修行者は、おのが好みたる風の先達の句を一すぢに尊み学びて、一句一句に不審をおこし、難を構ふべからず。若し解がたき句あらばいかさま故あらんと工夫し、或は功者に尋明むべし。我が俳諧の上達するにしたがひ、人の句も聞るもの也。始めより一句一句をとがめがちなる作者は、吟味のうちに月日かさなりて、終に功の成たるを見ず。先師曰。今の俳諧は日頃に工夫をつけて、席にのぞんでは気鋒を以て吐べし、心頭に落すべからずと也。支考曰、むかしの俳諧は如来禅のごとし、今のはいかいは祖師禅の如し、捺著すれば即ち転ず。

支考 ⇒ 各務支考
如来禅 ⇒ 如来が実践する禅法として、菩提達磨が伝えた禅を宗密が伝えた。
祖師禅 ⇒ 菩提達磨の禅を、言語や文字によらず、以心伝心で伝えられるもので、如来禅を否定するように生まれた。

俳諧の修行者は、好きな俳人の句を真っ直ぐに学んで、疑問を挟むべきではない。理解しにくい句があれば、何か理由があるのだと思って理解に努めたり、他人に聞いたりするべきだ。俳諧の上達に伴って、他人の句も分かるようになる。初めから他者を否定する気持ちのある作者は、最後まで大成しない。芭蕉はこう言っていた。日頃鍛錬を怠らず、句席には鋭さをもって臨むべきことを忘れるなと。支考は言う。昔の俳諧は如来禅のようで、今のは祖師禅のようである。


去来曰。先師は門人に教給ふに、其ことば極まりなし。予に示し給ふには、句毎句毎にさのみ念を入る物にはあらず、又句は手づよく俳意たしかに作るべしと也。凡兆には一句わづかに十七字なり、一字もおろそかに置くべからず、俳諧もさすがに和歌の一体なり、句にしをりの有やうに作るべしとなり、是は後者の気性と口質によりてなり、あしく心得る輩は迷ふべきすぢなり、同門の中にもここに迷をとる人多し。

凡兆 ⇒ 野沢凡兆

芭蕉は門人に教えるために、様々な言葉を用いた。去来には、句毎にそれほど念を入れずに、強く確かな意を持つようにしなさいと指導した。凡兆には、一句はわずかに十七字なのだから、一字もおろそかにしてはなりません。俳諧も和歌より出たものなのだから、その本質を見失わないようにしなさいと。このように人によって指導法が違うものだから、迷うものも多かった。


先師曰、発句は頭よりすらすらと云ひ下し来るを上品とす。
洒堂曰、先師曰、発句は汝がごとく、物二つ三つとりあつめて作るものにあらず、こがねを打のべたるやうにありたしとなり。
先師曰、発句は物をとり合すれば出来る物也、夫をよく取合すると上手といひ、あしきを下手といふなり。
許六曰、発句は取合て作する時は、句多く出来るものなり、初学の輩これをおもふべし、功者に及では取合せ不取合せの論にはあらず。
許六曰、発句は題の曲輪を飛出でて作るべし。廓のうちにはなきもの也。自然曲輪の中に在るは天然にして稀也。
去来曰、発句は曲輪の内になきものにあらず、殊に即興感偶する物は多くは内にあり、然ども、常に案るに、内はすくなく多くは古人の糟粕なり、千里にかけ出て吟ずる時は句おほきのみならず、第一等類をのがる、初学の最思べき処也。功なるに及んでは、又内外の論にはあらず。風國が俳諧、句毎曲輪の内なり、予此事を示せば「電に徳利さげて通りけり」と云ふを、「徳利さげて行きかかり」と直す。「名月に皆さかやきを剃りにけり」といふを、「さかやきを皆そりたてて駒迎」と直しぬ。

洒堂 ⇒ 医師でもあった近江蕉門の浜田洒堂。
風國 ⇒ 名古屋の開業医でもある蕉門の伊藤風國。

芭蕉は、発句は頭よりすらすらと言い下すのが上品だと言う。洒堂は、物を二つ三つと集めて作るものではなく、黄金を打ち延ばすように作るものだと芭蕉が言ったという。発句は物をとり合わせれば出来るもので、それをよく配合すれば上手と言い、そうでなければ下手だと、芭蕉は言う。発句を作るに、取り合わせたなら多く作れるため、学び始めのものはこれを考慮すべきであるが、学が進むにつれ、論ずるところではなくなると、許六は言う。発句は、題目の曲輪の内(常識の範囲内)に収まるべきものではないと許六は言う。それに対して去来は、心に浮かぶものの多くはその範疇にあるものの、ただ、多くは古人の糟粕で、そこを飛び出して作句するならば、句は多く作れるのみならず、似通ったものになることを避けられるため、学び初めには留意するところであると。風國の俳諧は、どれも曲輪の内にあるようなものだから、それを指摘すると直した。


去来曰、他門と蕉門と第一案じ処に違ひありと見ゆ。蕉門は景情ともに其有処を吟ず。他流は心中に巧まるると見えたり。たとへば「御蓬莱夜はうすものをきせつべし」「元日の空は青きに出舟哉」「鴨川や二度めの網に鮎一つ」といへる如し。禁闕に蓬莱なし、洛陽に出舟なし、鮎ひとつは少き事にや、皆是細工せらるるなり。
去来曰、蕉門の発句は一字不通の田夫、十歳以下の小児も時によりてよき句あり、却て他門の功者といへる人は覚束なし。他流は其流の巧者ならざれば、其流のよき句はなしがたしと見えたり。
去来曰、俳諧は新意を専らにすといへども、物の本情を違ていふものにはあらず。若其事をうち返していふには品あり。たとへば感時花濺涙惜別鳥驚心。或は「櫻花ちらばちらなん散らずとてふるさと人の来ても見なくに」といへるたぐひなり。感時、惜別、大宮人の見ざる、是等一首の眼也。

蕉門と他流では、考え方に違いがあるように思う。蕉門は情景とともに、その在処を詠む。他流は、心の中で技巧を凝らす。例句の如。蕉門では、小児でも秀句があるのに対し、他流では修行を積まなければ、その流派のよい句とはならない。俳諧は、新意が必要だといえども、ものの本質から外れるべきものではない。


去来曰、俳諧は火をも水にいひなすと清輔がいへるに迷ひて、「雪の降る日は汗をかきけり」といふてもくるしからずといふ人あり。夫は火を水とばかりこころえ、いひなすといふ處に心のつかざる故なり、雪の日に汗かくやうに一句を能くいひなさばさもあらむ。「咲きかへて盛ひさしき朝貌をあだなるはなとたれかいひけむ」の類也。

清輔 ⇒ 平安末期の歌人・藤原清輔。「奥義抄」で俳諧の本質に触れる。

俳諧は、火を見ても水と言いなすと清輔が言ったように、「雪の降る日に汗をかく」と詠んでもよいという人がいる。これは、「言いなす」という言葉の解釈を間違えている。雪の日に汗をかくように上手く句を作るならば、理解もできるが。


去来曰、句案に二品あり。趣向より入ると、又詞、道具より入るとなり。詞、道具より入る人は多くは頓作多句也、趣向より入る人は遅吟寡句也。されど案じかたの位を論る時は、趣向より入るをよしとす。詞、道具より入る事は和歌者流には嫌ふと見えたり、俳諧にはあながちにきらはず。

句をつくるには、2つの方法がある。趣向から入るものと、品詞などの言葉から入るものである。言葉から入るものは、機知にとんで、多くを作る。趣向より入るものはなかなか句が仕上がらず、その数も少ない。けれども、その試行錯誤のことを考えたなら、趣向より入った方が良いと言える。言葉から入るというのは、和歌では嫌われ、俳諧に特徴的なものである。


去来曰、蕉門に同巣同竈と云ふ事あり。是は前吟の鋳形に入りて作する句也。たとへば竿が長くて物につかへるといふ句を、刀の鐺が障子にさはる、或ひは枝がみじかくて地にとどかぬと吟じかゆる也。同竈の句は手がらなし、されど兄より生れましたらんは又手柄なり。

蕉門には同巣同竈という言葉がある。これは、前吟の型に応じて作るものである。例えば、竿が長くてつかえるというものがあれば、刀のこじりが障子に障る、あるいは、枝が短くて地面に届かないというように詠みかえる。同竈の句は、特に取り上げるところはないが、先の句より良いものになっているのであれば、褒められるべきである。


去来曰、句に句勢といふ事あり、文に文勢、語に語勢あるがごとし。たとへば「ふるふが如く小糠雪ふる」と云ふ句を、先師曰く「打あくるごと小ぬかゆき降る」と作れば句勢ありとなり。

文に文勢、語に語勢があるように、句にも句勢がある。例えば「ふるふが如く小糠雪ふる」という句を「打あくるごと小ぬかゆき降る」とすれば句勢が出ると芭蕉は言う。


去来曰。句に姿と云ふものあり。たとへば、

妻よぶ雉子の身をほそうする 去来

初は此句「妻よぶ雉子のうろたへて鳴く」と作りたりけるを先師曰、去来汝未だ句の姿をしらずや、同じ事も斯くいへば姿ありとて直し給へるなり。支考が風姿といへるも是也。

句には姿というものがある。例えば「妻よぶ雉子の身をほそうする」。はじめは「妻よぶ雉子のうろたへて鳴く」だったのを、芭蕉が「まだ句の姿というものが理解できていない」と言って直したものである。支考が風姿と言っているものである。


去来曰。句に語路といふものあり。句ばしりの事也。語路は盤上を玉のはしるがごとく、滞りなきをよしとす。又青柳の風に乱るるがごとく優を取りたるもおもしろからん。溝川に土泥のながるるやうに、行あたりあたりなづみたるはわろし。其外巻中一句二句は曲をなせるものあるべし。夫とても語路の滞りたるは嫌ふ也。

句には語路というものがある。句ばしりのことである。語路は、板の上を玉が走るように、滞らないのがよい。また、青柳が風に乱れるようなのも面白い。用水路に土や泥がが流れるように、行きあたりばったりなのは良くない。その他、巻中に一句二句は曲が流れるようなのがあるべきである。それでも、語路が滞るのは嫌われる。


先師曰、発句は昔より様々替り侍れど、附句は三変にとどまれり。むかしは附物を専とす。今は移り、響き、爾保比、位を以て附くるをよしとす。杜年曰、いかなる事を響き、匂ひ、移りといへるにや。去来曰、支考等あらましを書出せり。是を手にとりたるごとくにはいひがたし。いま先師の評をあざけてさとさん。他はおしてしらるべし。

発句は昔から様々に変ってきたが、附句は3回変わっただけだと、芭蕉が言う。昔は物に附けていたが、今は移り、響き、匂い、位をもって附けるのを良しとする。何を響き、匂い、移りというのかと言えば、表現は難しいが、支考があらましを書き出している。


赤人のつがれけりはつ霞 史邦

鳥もさへづる合点なるべし 去来

先師曰、うつりといひ匂ひといひ、実は去年中三十棒をうけられたるしるしなりと悦び給ひけり。爰におもへば、匂ひといふも移といふも、わづかに句作のあやにして、のるとのらぬとの境なれば、冷暖自知の時ならでは悟し明らむる事あるまじ。此句もし「赤人の名もおもしろや」とあらば、「鳥も囀るけしきなりけり」とも作るべきを、「名はつがれたり」といへるより「合点なるべし」とは、相うつり行くところ、味ひ見らるべし。響はうてばひびくがごとし、たとへば

くれ縁に銀かはらけを打ちくだき

身ほそき太刀のそるかたを見よ

先師此句を引いて教るとて、右の手にて土器を打ちつけ、左の手にて太刀にそりかくる真似をして語り給ひける、一句一句に趣のかはる事なれば、言語に蓋しがたきところ看破せらるべし。

史邦 ⇒ 芭蕉の門人の中村史邦。

芭蕉は、移りといい、匂いといい、これらは指導がうまく行き届いた作品だという。匂いも移りも句作の綾であって、のるかのらぬかの違いしかないが、ここでとやかく言う必要もないだろう。この句がもし、「赤人の名もおもしろや」であれば「鳥も囀るけしきなりけり」とするところを、「名はつがれたり」ときたので「合点なるべし」としたのは、打てば響くような痛快さがある。
次の例句では、芭蕉は右手で土器を打ち付け、左手で太刀をつくって語った。一句一句趣が変わっていくものであるので、言語に蓋をすることはできないと見抜かなければならないと、芭蕉は言う。


杜年曰、句の位とはいかなる事にや。去来曰、前句の位を知て附る事なり。たとへよき句ありとも、位応ぜざればのらず。先師の恋の句をあげていはば、

上置の干菜きざむもうはのそら

馬に出ぬ日は内でこひする

前句は人の妻にもあらず、武家町人の下女にもあらず、宿屋問屋の下女なりと見て、位を定めたるもの也。

細き目に花見る人の頬はれて

なたね色なる袖の輪ちがひ

前句古代の人のありさまなり。

白粉をぬれども下地くろい顔

役者もやうの袖のたきもの

前句のさま今やうの女と見ゆ。

尼になるべき宵のきぬぎぬ

月影に鐙とやらん見すかして

前句いかにも可然もののふの妻と見ゆ。

ふすまつかんで洗ふあぶら手

懸乞に戀のこころを持たせたや

前句町家のこしもとなどいふべきか、是をもて他はなずらへてしらるべし。

杜年が、句の位とはどういうことかと聞いた。前句の位を知って付けることだと言った。たとえ良い句であっても、位が違うのであれば駄目である。芭蕉の恋の句を例にとると、前句は、人妻でも武家町人の下女でもなく、宿屋問屋の下女と見ている。次のものは、古代人の姿である。さらに進んで今の人の姿に変わる。そして武士の妻になり、町家の腰元へと変化する。このようなものと考えるべきである。


杜年曰、面影にて附ると云はいかが。去来曰、うつり、ひひき、匂ひは附様の塩梅也。おもかげは附けやうの事也。むかしはおほくは其事を直に附たり。それを面影にて附るといふは、

草庵にしばらく居ては打ちやぶり

いのちうれしき撰集の沙汰

初めは「和歌の奥儀はしらず候」と附けたり。先師曰、前を西行能因などの境界と見たるがよし、されど直ちに西行と附けんは手づつならむ、ただ面影にて附べしとて、かく直し給ひぬ、いかさま西行能因の面影ならむとなり。又人を定ていふのみにもあらず。たとへば、

発心のはじめにこゆるすずか山

内蔵の頭かと呼ぶ人は誰ぞ

先師曰、いかさま「誰ぞ」がおもかげならんとなり、面影の事支考書置たり。見合すべし。

杜年が、面影に附けるとはどういうことかと聞いた。移り・響き・匂いは附け方によると答えた。面影は附けようのことで、むかしは直に附けるのが普通だった。それを面影で附けるというのは、例句のようなもので、初めは「和歌の奥儀はしらず候」と附けていた。それを芭蕉が、前句は西行や能因法師の境地と見るのが良いが、そのまま西行などと言ったのでは不器用だから、面影を残して直した。また、人を定めてしまうだけでなく、例句のように「誰ぞ」を使って面影とするのもある。これは支考が書きおいているので、見せてもらうとよい。


支考曰。附合は一句に一句也。前句附などはいくつも有るべし。連俳にいたりては、其場、其人、其時節等、前後の見合ありて、一句に多くはなき物也。
去来曰、附句は一句に千萬也。故に俳諧変化極まりなし。支考が一句に一句といへるは附る場の事なるべし、附くる場は多くなき物也。句は一場の内にもいくつも有るべし。
先師曰、気色はいかほどつづけてもよし。天象、地形、人事、草木、魚蟲、鳥獣のあそべる其形容みなみな気色也。

支考は、附合は一句に一句だという。前句附は、たくさん附ける。連俳では、その場、その人、その時節など前後の状態によって附けるものが定まってくる。 去来は、附句は一句にたくさん附けられるという。よって、俳諧は変化に富んだものになると。支考が一句に一句というのは、附ける場のことであり、これは多くはない。句は、一つの場の中にいくつもあるものである。 芭蕉は、天象、地形、人事、草木、魚蟲、鳥獣の遊ぶ様子などは全て気色であり、気色はどれほど続けても良いと言っていた。


支考曰、附句は附る物なり。今の俳諧はつかざるをよしとす。先師の句一句もつかざるはなし。
去来曰、附句は附かざれば附句にあらず。附過ぎるは病なり。今の作者附る事を初心の業の様に覚えて、かつて附ざる句多し。聞く人も亦聞き得ずと人のいはむ事を耻て、附ざる句を咎めず。却てよく附たる句を笑ふやから多し。我が聞るとは格別なる事も多かる。

今の俳諧は附かないことを良しとする傾向にあるが、附句は附けるものだと支考が言う。芭蕉の句も、附かないものはない。
附句は附かなければ附句でない。附き過ぎるのは良くないが。今の作者は、附けることを初心でやることのように考えていて、かつては附かない句が多かった。聞く人もそれを咎めず、かえって附いた句を笑う者が多かった。


去来曰、附物にてつけ、又心附にて附るは、其附たる道筋しれり。附物をはなれ情をひかず附けんには、前句のうつり、匂ひ、響なくしてはいづれの処にてか附ん。心得べき事也。

附物でつけ心附でつけるのは、そのつけた道筋が知れている。附物を離れて情をひかず附けるには、前句の移り・匂い・響きなくしてはどのように附けよう。


去来曰、蕉門の附句は前句の情を引来るを嫌ふ。ただ前句は是いかなる場、いかなる人と其事其位をよく見定め、前句をつきはなして附くべし。

蕉門の附句は前句の情を受けるのを嫌う。どのような場であるか、どのような人なのか、その事、その位をよく見定めて、前句を突き放すように附けるべきである。


去来曰、蕉門の附句は前句の情を引来るを嫌ふ。ただ前句は是いかなる場、いかなる人と其事其位をよく見定め、前句をつきはなして附くべし。

蕉門の附句は前句の情を受けるのを嫌う。どのような場であるか、どのような人なのか、その事、その位をよく見定めて、前句を突き放すように附けるべきである。


先師曰、附物にて附る事、当時好ずといへども、附物にて附けがたからんを、さつぱりと附物にて附けたらむは、又手柄なるべし。

附物にて附ける時、附け難いといってもさっぱりと附けた時は褒められるべきだと芭蕉は言う。


宇鹿曰、先師十七の附方、路通に伝授し給ふと聞。去来曰。遠境の門人の願に依りて附方を書出し給ふ。されど後々はせをが附方は是にかぎりたりと、人の迷ひならんと、これを捨らる、其書出し給ふ分十七ケ条とやらん聞えたり。是を伝授としたまふ事をしらず。大津にての事とやらむなれば、路通もし其反古を拾ひとりて、人に教ふるにや。許六曰、此事をねがひたるは千那法師なり。

宇鹿 ⇒ 芭蕉の門人の西田宇鹿。
路通 ⇒ 八十村路通
はせを ⇒ 松尾芭蕉
千那法師 ⇒ 近江の明式上人。蕉門下。

芭蕉の十七の附方を路通に伝授したと聞いたと宇鹿は言う。遠くの門人のために芭蕉は附方をいろいろと書き出したが、後々、迷いのもとになると言って捨ててしまった。その書き出したものは、十七ケ条と聞いている。これを伝授したというのは聞いたことはないが、大津でのことなら、路通が、反古にしたものを拾い上げたのだろう。


去来曰、附句は何事なく、さらさらと聞ゆるをよしとす。巻をよむに思案工夫して、附句を聞かむは苦しき事也。

附句は、何事もないようにさらりと聞こえるのが良い。全体を読むのに思案して、附句に注意がいかないようではいけない。


去来曰、風は千変万化すといふとも、句体「新しく」「清く」「軽く」「慥かなる」「正く」「厚く」「閑なる」「和なる」「剛なる」「解たる」「なつかしく」「速なる」如此はよし。「鈍く」「濁れる」「弱く」「重く」「薄く」「したるく」「澁たる」「堅く」「騒しく」「古き」かくの如きは悪し。但し「堅き」と「鈍なる」句には善悪あるべし。

風体は千変万化するといっても、句体が「新しく」「清く」「軽く」「慥かなる」「正く」「厚く」「閑なる」「和なる」「剛なる」「解たる」「なつかしく」「速なる」は良い。「鈍く」「濁れる」「弱く」「重く」「薄く」「したるく」「澁たる」「堅く」「騒しく」「古き」のようなのは悪い。ただし、「堅き」と「鈍なる」句には善いところも悪いところもある。


支考曰、附句は句に新古なし。附る場に新古あり。
去来曰、古風の句を用るにも、場によりてよし。されど古風のままにはいかが、古体のうちに今やう有るべし。

支考は、附句は句に新古はないと言う。附る場に新古あり。
場によっては、古風な句を用いるのも良い。けれども、古い体の中に、現代風のものを入れるべきだ。


支考曰、附句は句に新古なし。附る場に新古あり。
去来曰、古風の句を用るにも、場によりてよし。されど古風のままにはいかが、古体のうちに今やう有るべし。

支考は、附句は句に新古はないと言う。附る場に新古あり。
場によっては、古風な句を用いるのも良い。けれども、古い体の中に、現代風のものを入れるべきだ。


先師曰、一巻表より名残迄、一体ならんは見ぐるしかるべし。

先師曰、一巻表より名残迄、一体ならんは見ぐるしかるべし。


先師曰く、一巻面は無事に作るべし。初折の裏よりなごり表までに物数奇も曲も有るべし、半より名残の裏にかけては、さらさらと骨折ぬやうに作るべし。末に至ては互に退屈いできたれる物也、猶よき句あらんとすれば、却句しぶりて出来ぬ物なり、されど末々まで吟席いさみありて、好き句出来らんを無理に止るにはあらず、好句を思ふべからずといふ事也。

一巻の表は波風をたてずにつくるべきだと芭蕉が言う。初折の裏から名残表まで、物数奇も曲も有るべきだ。半ばから名残の裏にかけては、さらさらと骨を折らないように作るべきである。末に至っては退屈になるもので、なお良い句を求めるならば、却句をしぶって出来ないものだ。けれども、良い句が出来るのを無理に止めているのではない。好句を思ってはならないということである。


其角曰、一巻に我句九句十句有るとも、一二句好句あらば残らず能句をせんと思ふべからず。却つて不出来なるものなり、いまだ好句なからんうちは随分好句を思ふべし。

9句10句の句の中に1句2句好ましいのがあれば、すべて良いと思ってはならないと其角がいう。これは却って不出来であって、好ましい句がないうちは、それを思うべきである。


去来曰、附物にて附くる事、当時嫌ひ侍れど、其あたりを見合、一巻に一句二句あらんは又風流なるべし。

附物にて附ける事、「嫌い」が一巻に一句二句あるのも愛嬌である。


浪化曰、今の俳諧物語等を用ふる事いかが。去来曰、同じくは一巻に一二句あらまほし、猿蓑の中に「待人いりし小御門の鍵」も門守の翁也。此集撰む時、物がたり等の句すくなしとて、粽結ふの句を作して入れ給へり。

浪化 ⇒ 浄土真宗の僧であり、蕉門の俳人。

俳諧に物語等をもちいる今の風潮をどう思うかと浪化が言う。一巻に一二句あるもので、猿蓑の中の「待人いりし小御門の鍵」も、門守の翁である。これを編集する時、物語の句が少ないからと、「粽結ふ片手にはさむ額髪」の句をつくって入れた。


去来曰、凡吟ある時は風あり、風は必変ず、是自然の事也。先師是をよく見取て、一風に長くとどまるまじき事を示し給へり。たとひ先師の風なりとも、一風になづんで変化をしらざるは、却て先師のこころにたがへり。

およそ吟ずる時は風があるものであるが、それは必ず変化するものである。芭蕉はこれを見抜いて、同じところに長くとどまっていてはいけないことを示した。たとえ芭蕉の様式であっても、そこに浸って変化しないのは、かえって芭蕉の意図したところから外れている。


杜年曰、発句の善悪はいかに。去来曰、発句は人のもつともと感ずるがよし、さもあるべしと云ふは其次也。さも有るべきやといふは又其次也。さはあらじといふは下也。

杜年が、発句の善悪はどうしたら分かるかと言った。発句は、「もっとも」と納得するものが良い。「さもありなん」というのは次点である。「そうあるべきか」というのはそのまた次である。「そうじゃない」というのは下。


杜年曰、発句と附句の境はいかに。去来曰、七情萬景こころに留まる処に発句あり、附句は常なり、たとへば鶯の梅にとまりて啼といふは発句にならず。鶯の身を逆に鳴くといふは発句也。杜年曰、心に留むる所は、皆発句なるべきか。去来曰、此うち発句になると成らぬとあり。たとへば、

つき出すや樋のつまりのひきがへる 好春

此句を、先師の古池の蛙と同じやうにおもへるとなん、事めづらしく等類なし、さぞ心にもとどまり興もあらん。されど発句にはなしがたし。

杜年が、発句と附句の境はどこにあるのかと聞く。七情万景の心に響くところが発句となり、附句はどこにでもあると答えた。例えば、鴬が梅にとまって鳴くというのは発句にならず、身を逆さまにして鳴くというのは発句である。すると杜年が、心に響くものなら全て発句とすべきかと聞く。それらにも発句になるものとならないものがあると答える。例えば例句のようなのは、芭蕉の古池の蛙の句のように思うとどうだろうか。目新しく同じようなものはなく、心にも残って趣もあるが、発句にはならない。


野明曰、句のさびはいかなる物にや。去来曰、さびは句の色也。閑寂なる句をいふにあらず。たとへば老人の甲冑を帯し戦場に働き、錦繍をかざり御宴に侍りても、老の姿有がごとし。賑かなる句にも、静かなる句にも有るものなり、たとへば、

花守や白きかしらをつきあはせ

先師曰、さび色よくあらはれたり。

野明が、句のさびとはどんなものかと聞いた。閑寂な句をいうものではなく、さびとは句の色だと答えた。例えば、老人が甲冑を着て戦場に赴いたり、錦繍を飾って宴の席に着いても、老いの姿は消えないものである。賑やかな句にも静かな句にもあるもので、例句にはさびの色がよく表れていると芭蕉が言う。


野明曰、句の位とはいかなるものにや。去来曰、これも又一句をあぐ。

卯の花のたえ間たたかむ闇の門

先師曰、句の位尋常ならずとなり。去来曰、畢竟句位は格の高きにあり。句中に理窟をいひ、或は物をたくらべ、或はあたり合たる発句は位くだるもの也。

野明が、句の位とはどんなものかと聞いた。例句のようなもので、芭蕉はこれを句の位が尋常でないと評している。つまり、格の高さのことであり、理屈を述べたり比較したり、ぶつかりあうような句は下位に置かれる。


野明曰、句のしをり、細みとはいかなるものにや。去来曰、しをりは哀れなる句にあらず、細みはたよりなき句にあらず、しをりは句の姿にあり、細みは句のこころにあり。是も證句をあげていはば、

十団子も小粒になりぬ秋の風

先師曰、此句しをりあり。

鳥どもも寝入りてゐるか余吾の海

先師曰、此句細みありと評し給ひしと也。去来曰、総じてさび、位、細み、しをりの事は以心伝心なれば、唯先師の評をあげて教ふるのみ。他はおして明むべし。先師遷化の年、深川を出で給ふ時、野坡問曰、はいかいやはり今のごとく作し侍らむや。先師曰、しばらく今の風なるべし、五七年も過はべらば又一変あらむとなり。

野明が、句のしおりや細みとはどんなものかと聞いた。しおりは哀れな句ではなく、細みは頼りない句ではない。しおりは句の姿にあり、細みは句のこころにある。十団子の例句にはしおりがある。鳥どもの句は芭蕉が細みがあると評したと聞く。総じて言えば、さび、位、細み、しおりは以心伝心するものであるので、芭蕉の評をもって教えるのみである。芭蕉が亡くなった年、深川を出る時に、野坡が、俳諧は現在のような形で続けて行っていいのですかと聞いた。芭蕉は、しばらくはこの状態が続くが、5年から7年も経てばまた変わると言った。


今年、素堂子、洛の人に伝へて曰、蕉翁の遺風天下に満て漸く変ずべき時いたれり、吾子こころざしを同じうして、我と吟会して一つの新風を興行せんとなり。去来答云、先生の言かたじけなく悦び侍る、予も兼て此思ひなきにもあらず、幸に先生をうしろたてとし、二三の新風を起さば、おそらくは一度天下の人をおどろかせん、しかれども世波老の波日々うちかさなり、今は風雅にあそぶべきいとまもなければ、唯御残多おもひ侍るのみと申。素堂子は先師の古友にして、博覧賢才の人なりければ、世に俳名高し、近来此道うちすさみ給ふといへども、又いかなる風流を吐出されんものをと、いと本意なき事なり。

素堂子 ⇒ 山口素堂

山口素堂が京都の人に伝言してこう言ってきた。芭蕉の残したものは天下に行きわたって、ようやく変わる時に至った。ここに、志をひとつにして、新風を興そうと。素堂先生のその言葉は嬉しく、同じ思いも有るにはある。先生を後ろ盾にして新しいことをやっていけば、きっと人々も驚くだろう。ただ、世間の動きは激しく、年もとってしまったので、風雅に遊ぶ暇もなく、残念な思いがあるだけだと答えた。山口素堂は、芭蕉の古い友人であり、博覧賢才の人で、俳諧でその名も知れ渡っている。近頃、俳諧の道は荒んでしまったといえども、どのような新風を巻き起こすことができるか想像を巡らせてみると、残念なことではあった。


於暮雨庵 嚔居士一音書
大尾

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